白狼の娘 第九話 決意

「ねえ、あなたの値段って銅貨十枚なの?」

「は?」

 エーファはまだ混乱から立ち直っていないようで、ぽけっとした顔をしている。


「ほら、さっき言ってたじゃない『銅貨十枚のはした金で抱いておいて』って。

 本当にそんなに安く身体を売ってるの?」


「あ……うん。あたしのお客さんは枝郷のおっちゃんたちだから、奥さんにバレないようにお金を用意するのは大変なのよ。

 おっちゃんたちも悪いと思っているみたい。こっそり食材を持ってきてくれるしね。逆に助かっているわ。

 村に買い出しになんか行けないの。あたしは奧さん連中には蛇のように嫌われているから、のこのこ顔を出したら石を投げられるもの。

 安心して買い物ができるのは、人の多い親郷だけ。あたしも親郷じゃ客を取らないしね」


「あら、村に行けないのにどうやって商売しているの?」

「郊外にある炭焼き小屋や農具置場とか、ちょっとした洞窟だったり、とにかく雨のしのげるところよ。

 村に着いたら、畑や放牧場で働いている常連のおっちゃんたちにこっそり声をかけるの。『××に一週間いるからね』って。そうすれば、村の男連中にすぐに伝わるようになっているわ」


「ふ~ん……」

 ヨーコは少し考え込んだ。

「……ねえ、あなたもう十年以上この商売をやっているんでしょう。

 妊娠したことはなかったの?」


 エーファは少し淋しそうに笑う。

「幸か不幸か、あたしは子どもができにくい身体みたい。

 母さんも夫婦仲がよかったのに、あたし一人しか産めなかったから遺伝なのかしら」

「病気は?」


 エーファはかぶりを振った。

「あたしのお客さんは田舎のおっちゃんだって言ったでしょ。親郷の田舎娼婦を抱くのだって銀貨一枚は必要なのよ。

 そんなお金、おっちゃんたちに出せるわけがないわ。逆に言えば、病気を貰ってくることもなくて安心なの。

 ヨーコさん、さっき『都会で働いてみないか』って言ってたけど、それこそあっという間に病気を感染うつされるって聞いたことがあるわよ」


 ヨーコはうなずいた。

「そりゃ安いところならね。港町のカシルなんかじゃ、新しく入った娼婦は一年で使い物にならなくなるそうよ。

 でも、私が言っているのはもっと高級なところなの。お客も貴族や富裕商人ばかりよ。病気の娼婦なんかがいたら信用に関わるわ。

 だから一見いちげんさんのお客はお断りだし、働く女の子は毎月専門のお医者さんの診察を受けるの。その点は安心していいわ。

 それに、一人相手にすれば最低でも銀貨三枚、上客に指名されれば五枚は入ってくるわ。もちろん、店の取り分は別でね。

 どうせ身体を使うなら、それくらい稼がなきゃ!」


 エーファは呆れたようにヨーコの顔をまじまじと見つめた。

「ヨーコさん、召喚士だったわよね。娼婦の勧誘だなんて……げんの真似までするの?」


 ヨーコは思わず吹き出した。

「やーね、違うわよ!

 白城市にね、高級娼館を経営しているマダム・リリィっていうお友だちがいるの。仕事の関係で知り合ったんだけど、返しきれないくらいの恩義があるわ。

 その人から『いいを見つけたら紹介して』って頼まれていたのよ。

 客層がいいから、若過ぎるとかえって困るらしいわ。二十九歳なら問題ないはずよ。

 さっきあなたの裸を見たけど、スタイルもそんなに崩れていないし(でも、お腹の贅肉は落とさなきゃね)、もともと顔立ちはきれいな方だもの。

 それに、一番大事なことは〝頭がいいこと〟なのよ。エーファなら大丈夫だわ」


「意味が分からないわ。あたしは小学校しか出ていないし、何も知らない馬鹿な田舎娘よ」

「違うちがう、学歴や知識は関係ないの。

 マダム・リリィが言っていたわ。『大切なのは、相手がどうすれば喜ぶかに気づけるかどうか』だそうよ。

 頭のいいひとはね、『この人は自慢話が大好きなんだ』とか『仕事の話を聞いてほしいんだ』とか、相手の好みを素早く掴んで、それに合わせられるの。

 そしてどんな話でも『うんうん』と熱心に聞いてあげて、前に相手した時の話をちゃんと思い出せるのが大事なんだって」


「……ああ、それなら割と得意――っていうか、おっちゃん相手に普通にやっていることだわ。

 何か月ぶりに相手をした時、『そういえばこの前、大豆の苗に元気がなくて心配だって言ってたけど、順調に育ってるの?』とかって言うと、もの凄く喜ぶのよ。『俺の話を覚えていたのか!』ってね。

 おっちゃんたちは『女房は顔さえ見れば愚痴ばかり、娘は俺を肥溜めみたいな目で見て口もきかない』って嘆くのよ。あたしが自分に関心を向けてくれるのが嬉しいんですって。

 あたしは普通に相手しているつもりなんだけど……」


「そうでしょう? エーファはそれができるだと思っていたわ。

 ねっ、故郷に帰る気がないんだったら、私と一緒に白城市に行ってみない?」

「そんな……。急には決められないわ」

「そうよね。それじゃ方向は同じなんだから、一緒に行きましょう。

 次の村に着くまでに決めてくれればいいわ」


      *       *


 エーファは夏の陽射しで乾いたワンピ-スを取ってくると、あちこちに開いた穴やかぎ裂きをつくろい始めた。

 派手な花柄のワンピースは、よくよく見るとあちこちに繕った跡があり、洗濯を繰り返したせいか色も褪せている。

 それでもこれが彼女の精一杯の〝一張羅〟であり、大事な商売道具なのだろう。


 ヨーコはその間に水浴びをして身体を洗い、エーファ同様に汗ばんだ肌着や衣類を洗濯した。

 一時間ほどして川から上がってきた彼女は、身体を大きなタオルでしっかりと巻いていた。エーファのように同性に裸を晒す気はないらしい。


 戻ってみると、エーファは食事の支度をしていた。石で作った小さな竃の上には小ぶりな鍋がかけられ、よい匂いのするスープが湯気を上げている。

 確かにもう昼に近くなっていたが、ヨーコが川に入っているうちに火を起こして料理を作り上げていたのは大した手際である。


「お昼を作ってくれたの? ありがとう」

「まぁ……昨日から迷惑かけどおしだからね」

 エーファは少し顔を赤くして二人の前に木皿と椀、フォークとスプーンを置いた。

 荷物からごそごそと黒パンと丸い陶器のバターケースを取り出し、木皿の上で切り分けてバターをたっぷりと塗る。


 この時代のバターは常温保存のため塩分が強く、田舎ではパンに塗っただけで立派な食事と見なされていた。

 しかしエーファは熱いスープまで用意していた。塩蔵肉、タマネギ、イモや根菜類が入ったなかなか豪華なものである。


「何でも入っているのね」

 ヨーコは感心して渡されたナプキン(粗末なものだが清潔だった)を膝の上に広げながら感想を洩らした。

 エーファの荷物には衣類や敷物ばかりでなく、調理器具や食器、食糧まで詰め込まれているらしい。道理で重いはずだ。

 スープが注がれた椀を受け取ったヨーコは「遠慮なくいただくわ」と言って、スプーンを口に入れた。


「あら……美味しい!」

 お世辞でも何でもなく、そのスープは美味だった。とてもあり合わせの材料で、しかも短時間のうちに作ったとは思えない味である。

「肉は羊だけど、全然臭みがないしとても柔らかいわ。それにこの香り……鶏肉が入っているようには思えないけど、確かにその旨味が感じられるわね。

 ちゃんと覚えていないけど、昔あなたのお母さんからご馳走になったスープと似ているような気がするわ」


「へえ~、ヨーコさん分かるんだ!

 あたしの料理は母さんに仕込まれたものだからね。母さんは優しかったけど、お料理を教える時だけは鬼のように厳しかったのよ。

 塩蔵肉を柔らかくするには戻し方にコツがあるの。調味料には鶏の脂を塩と香草で練り固めたのを使っているわ。ちゃんと気づいてもらえると嬉しいものね」


 ヨーコはスープに感嘆しながら黒パンにかぶりついた。

「うん、山羊バターの風味と塩気が優しい味のスープととても合ってる。

 私はあんまりお料理ができないから、感心しちゃうわ」

 エーファは嬉しそうな笑顔を浮かべている。それはヨーコが十七年前に見て覚えている、十二歳の少女の笑顔と何も変わっていなかった。


 昼食が済み片づけを終えると、二人は南の村を目指して出発した。

 エーファの荷物はロキの身体に取りつけている振り分け鞄の上に乗せ、ロープでずれないようにしっかりと縛った。

 その上で成人女性二人を乗せるのであるが、ロキは平気な顔をしていた。


『さすがにこれで走るのはきついが、歩くだけなら問題ない』

 エーファがしきりに心配するので、ヨーコはロキの言葉を伝えなければならなかった。

 オオカミに跨るエーファは、両手を前について針金のように固く長い毛並みを掴んでいた。

 姿勢が前かがみになるが、ヨーコが後ろからしっかりと抱きかかえていたので、思ったほど苦しくはなく、むしろ安心感の方が強かった。


 背中に押し当てられるヨーコの柔らかな乳房。お腹を支えている両腕。後ろから微かに漂ってくる花ような香り。

 エーファにはまったくそういう趣味はないが、なんだか胸がどきどきして、自分の顔が赤くなっているのが分かる。

 彼女たちはオオカミの背で揺られながら、のんびりと街道を南下していった。

 黙っていると眠くなるので、二人はとりとめのない会話を続けていた。


      *       *


「一つの村で一週間くらい商売するのよね。どのくらいお客さんを取るの?」

「う~ん……全部で七、八人かな? 一人銅貨十枚でも銀貨三枚になるから、結構稼ぎはいいのよ」

「そうね、月に三週働けば銀貨十枚近いものね。一日に一人が相手なら、のんびりしたものね」


 エーファはくすくす笑った。

「それがそうでもないのよ。

 毎日二、三人の常連さんが通ってくるわ。それも昼時に集中するから大忙しなの」

「え? どういうことかしら?」


「あたしが村に着いて、畑仕事をしている馴染みのおっちゃんに声をかけるでしょ。

 もう常連客同士ですっかり仲間になっているから、すぐに連絡が回って夕方に集まるらしいの。

 そこであたしを抱きに行く順番を決めるんだけど、それだけじゃなくて差し入れる食材の分担も決めるのよ。〇〇は塩蔵肉、××は野菜、△△はパンとかね」

 それで次の日に一番手のおっちゃんが荷車曳いて、一週間分の食糧を持ってきてくれるのよ。

 ちなみに一番くじを引いたおっちゃんは、肉の担当って決まっているんですって」


 エーファは声を出して笑い始めた。

「でね、お昼時になると、おっちゃんたちがあたしの料理を食べにくるのよ。

 こっちも分かっているから、ちゃんと三人前くらい作って待っているの。

 みんな『うちのかかあの百倍旨い』とか言って、にこにこして食べてくれるのよ。だからあたしの方もちょっと嬉しいわね。

 実際、おっちゃんたちのお弁当なんてバターを塗った黒パンだけだもの。肉を使ったスープやシチューが昼から食べられるなんて、凄い贅沢なのよ。

 だからあたしの場合、身体を売るのはついでで、賄いをしに村を回っているようなもんだわ」


 ヨーコは「なるほどね……」と感心したように聞いていたが、ふいに身体をぴたりとくっつけてきて、エーファの耳元でささやいた。

「エーファはお料理を作るのが好きなの?」

 耳をくすぐる低く柔らかな声とともに、またふんわりとした花の香りがした。

 エーファは顔が熱くなるのを感じ、慌ててうなずいた。

 そしてごまかすように「ヨーコさんいい匂いがするわ」と小声でつぶやいた。


 ヨーコは心ここにあらずといった顔で答える。

「ええ、香水をつけているからじゃないかしら。

 あなただって都会の娼館で働くようになれば、いい香りのシャボンでお風呂にも入れるし、香水だって使えるようになるわよ」


      *       *


 目的の村には夕方に着いた。彼女たちはエーファがいつも使っているという、郊外の炭焼き小屋で荷物を降ろした。

 炭焼きは煙と臭いが酷いので村から離れた場所で行う。しかも材料の調達の都合から、森の近くに小屋が建てられる。

 使用されるのは冬の間だけだから、今の季節はしっかりと戸締りがされている。だが、そこは村の男たちも心得たもので、エーファには複製した鍵がこっそり渡されていたのである。


 まだ九月なので、日が落ちるまでにはかなりの時間があった。当然、男たちはまだ農作業の最中だろう。

 エーファは「おっちゃんたちに知らせてくる」と言って、一人で出かけていった。

 彼女はあの派手な花柄のワンピースにも着替えず、化粧もしないで普段着のままだった。気のせいか遠ざかっていく後姿が小さく見える。


 ヨーコはそれを見送りながら、身体にまとわりついた埃を払っていた。

「さて、あの娘エーファはこのまま商売を続けるのかしら。

 この暮らしを結構気に入っているみたいだから、私は振られちゃうかな?」


『もしエーファがお前に付いていくと言ったら、本当に娼館に売り飛ばす気なのか?』

 ロキが疑わし気な声で訊ねてきた。

「やあねぇ、〝売り飛ばす〟だなんて人聞きの悪い。私、仲介料を取るつもりはなくってよ。

 でも、私は本気なのよ。あのはただ〝運がいい〟だけだわ。今の暮らしを続けていたら、必ず悲惨なことになるのが目に見えているもの。

 エーファは頭のいい子だから、多分気づいていると思うんだけど……」


 ロキは「くしゅん」と鼻を鳴らし、ぶるっと身体を震わせた。

『お前もおせっかいになったものだな。昔だったら絶対にそんなこと気にもかけなかったぞ。

 ――それよりも、ちょっと気になることがある。

 俺も少し出かけてくる』


「あらあら!」

 ヨーコは大げさに身をよじって驚いてみせる。

「こんなか弱い乙女を一人残して、どこへ行ってしまうと言うの?」

『抜かせ! ウサギを獲ってきてやるから、おとなしく留守番をしていろ!』


 白いオオカミはそう言い残して森の奥へと消えていった。


      *       *


 エーファが戻ってきたのは二時間も経ってからだった。一方のロキはまだ帰ってこない。

 彼女は泣き腫らした真っ赤な目で、ぐすぐすと鼻を鳴らし、しゃくりあげていた。

「どうしたのエーファ! 誰かに酷いことでも言われたの?」


 出迎えたヨーコは、抱きついてきた彼女を受け止めた。

 その目はすばやくエーファの全身を確認していた。衣服も髪も乱れていないし、目立った傷や痣もない。

 少なくとも身体的な暴行を受けたのではなさそうだった。


 ヨーコは震えているエーファの背をぽんぽんと叩いて、しばらく頭を撫で続けた。

 そして、彼女の顎に手をかけて顔を上げさせると、ハンカチを押し当てて鼻をかませる。

 少し落ち着いてきたところで、ヨーコは彼女の身体を離し、優しく語りかけた。


「泣いているだけじゃ分からないわ。何があったの?」

 エーファはまた新たな涙を何粒か零すと、とぎれとぎれの声で話し始めた。


「畑仕事してたジェイムズのおっちゃんを見つけて、それで……おっちゃんに都会で働くことにしたから、もう来れないってお別れを言ったの。

 そしたらね、おっちゃんが泣きながら『よかった、よかった』って、すごく喜んでくれて……」

「……そう、決心してくれたのね。

 でも、よかったじゃない。おじさんも喜んでくれたんでしょう?

 だったら、そんなに泣くことないじゃない」


「違うの!」

 エーファは〝いやいや〟をするように首を激しく振った。

「そうじゃないのよ。おっちゃんはこう言ったの。

 『俺たちは淋しいが、こんな仕事から足を洗うに越したことはないよ。堅気になって、真面目に働くんだ。あんたなら、すぐにいい旦那が見つかるさ』って。

 ジェイムズのおっちゃんは、あたしが売春を止めるんだと思い込んでいるのよ。

 でも、あたし言えなかった……。都会に行って、また身体を売るんだって……どうしても言えなかったの!」


 そう叫ぶと、エーファはまたヨーコの胸に顔を埋めて激しく泣き出した。

 ヨーコはかける言葉が見つからず、憐れな田舎娘を抱いて、ゆっくりと背中をさすり続けていた。

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