第8話 いぶきの秘密
浅倉の話をゆっくり咀嚼し、飲み込み、忍はゆっくり頷いた。
「話してくださって、ありがとうございます」
無意識に伸ばした手を、大きな手で包まれる。
浅倉の目は心なしか赤くなっていた。
「佐倉さん。いえ、忍さん。俺はあなたが好きです。本当に本当に大好きなんです。いつかいぶきちゃんが嫁に行くとき、父親は俺ですって言いたいです。バージンロードも一緒に歩きたい。そしてあなたとは、死が二人を分かつまで、ずっとずっと一緒にいたいです」
「浅倉さん……。でも私は」
「返事は急がなくていいです。大丈夫、俺、気が長いんですよ。他の奴にあなたを渡す気は全くないですけどね。ただこれだけは覚えていてください。俺はあなたが好きで、あなたを幸せにしたいんだって。いっぱい笑わせたいんです。忍さんの笑顔が大好きなんです」
いろんな感情が洪水のように押し寄せ、忍は頭がくらくらした。
だが一筋の光のように、脳裏にバージンロードを歩くいぶきが浮かぶ。その隣を浅倉が歩いている。
ああ、それが現実になるなら、どんなに素敵だろう。
この人の腕の中は、きっと守られているようにぬくぬくと気持ちがいいだろうと思う。余計なものを全部取っ払ってしまえば、純粋に彼を好きだと気づく。それは痛みよりも温かさを伴うとても幸せな感情だった。
でも無理だ。今は無理なのだ。
いぶきが旅立てばすべてが変わる。彼の思い出も消えてしまう。
その時まだ、彼は私を好きだと思うのだろうか?
いぶきを忘れてしまった彼を、私は受け入れることが出来るのだろうか?
* * *
ゆっくり食事をしながら、あとは他愛もない雑談をした。会計は浅倉が支払ったので、次は忍がごちそうすると約束をすると、彼は次の約束が出来たと照れたように笑った。
その笑顔に伸ばしたくなった手を、忍はぎゅっと握りしめる。
外に出ると雨はいつの間にか止んでいた。
当たり前のように車で送ろうとする浅倉に対し、忍はこのまま歩いて帰ろうかと考えていた。ゆっくり考えるのにちょうどいいと思ったのだ。その時後ろから「お客様」と声をかけられた。
振り向くと瑛太がハンカチを持って立っている。
「これ、お席にあったんですけど、お客様の忘れ物では」
「あ、そうです。ありがとうございます」
カバンにしまったときに落としていたらしいハンカチを受け取る。忍がにっこり笑うと、瑛太はほっとしたように微笑んで一礼した。その笑顔が可愛らしく、一瞬忍の心の琴線に何かが引っかかると、瑛太のほうが
「あの、もしかしていぶきさんのお母さんですか?」
と聞いてきたので驚いた。従業員の誰かが気付いて教えたのだろうか?
「そうです。よく分かりましたね? 娘がいつもお世話になってます」
「やっぱり! そっくりだなって思ったんですよ。いえ、世話だなんてとんでもないです」
瑛太の姿が微笑ましいと思っていると、彼は意を決したように姿勢を正した。
「あの、俺、いえ僕は亀井瑛太といいます。いぶきさんのことが好きです」
「えっ? ああ、はい、ありがとうございます?」
――なぜ私にそれを告白する?
驚いて目を瞬かせる忍に瑛太は真剣な顔をした。
「正直いぶきさんには、今のところ全っ然相手にされてないんですけど。でも、俺本当に彼女のことが好きで。こんな気持ちになったの生まれて初めてで。それであの、忍さんって誰のことだかご存じないですか?」
「は?」
勢いに飲まれ思わず素の声が漏れた忍は、慌てて口を手で押さえた。
――忍が誰かって……。ああ、そういうことか。
以前理想のタイプを彼に聞かれた美奈子が、いぶきの回答をそのまま送信したことを思い出す。いまだに誤解が解けてないことがおかしくなった。
誰も教えてくれなくて、気になってと言う彼の目は、娘を真剣に想ってくれていることが分かる。
だが、こんな想いまで消えてしまうのかと、やるせなくなった。あと4か月半ですべて消えてしまう、何もなかったことになってしまう。
でも少なくとも、――いぶきと忍の中には思い出として残る。
そう気づいた忍は「いぶきに直接聞いてごらんなさい」と答えた。
「応援してるわ。頑張ってね」
「彼、いぶきちゃんが好きだったんですね」
少し離れて一部始終を見ていた浅倉が感心したように言った。
「そうみたいです」
忍の答えに「はい、そうします。ありがとうございます!」と元気に答えて戻って行った瑛太に、心の中でもエールを送る。
忘れてしまっても、きっと大切な何かは残るのだと信じたくなった。痛みも愛しさも、きっと糧になる。いぶきにも、忍にも。
「浅倉さん、もしまだ時間があるなら、もう少しお話してもいいですか?」
いぶき以外に話したことがない、荒唐無稽な話を彼にすると決めた。
* * *
翌々日。
昼近く、忍がパソコンでDVDを見ているといぶきが帰ってきた。
キャンプの子どもたちは朝食後解散なので、後片付けがあったのか、一緒に行っていた美奈子とおしゃべりをしていたかしたのだろう。
「おかえり。もう少ししたらお昼の準備するからちょっと待ってね」
「うん、ただいま。何見てるの?」
「亡くなった向こうのおじいちゃんからもらったDVD」
元舅は三年ほど前に亡くなったが、離婚後も交流があり、元姑とは今もいぶき一人、もしくは忍とも一緒に年一回程度会っている。元夫には内緒だ。彼とは離婚以来、いぶきも一度も会っていない。会おうと言われたことがないし、小さいころ何度か約束をしてもすっぽかされてきた。約束を反故されるほうがいぶきが悲しむので、だったら会わないほうがいいだろうとそのままになったのだ。
「おじいちゃん、ビデオ編集上手だったよね」
後ろからパソコンを覗きながら、いぶきが楽しそうにそう言う。
元舅は新しいものが好きで、パソコンの動画編集も独学だそうだが、古いビデオを編集してくれたDVDはBGMやテロップも凝っていて、楽しい出来になっていた。その影響でいぶきも動画の編集をしてDVDにしてくれている。それが残るかどうかは別として、だ。
いぶきが四歳までの歴史だが、元義父母は本当に可愛がってくれたと思う。
今忍が見ているのは、離婚直前の春の運動会だ。いぶきがくりくりした目の友達と手をつないで歩いている。
「ねえ、いぶきさん?」
「なんでしょう、お母様」
芝居がかった忍の言葉に、同じく芝居がかった言葉で返された忍は、動画を一時停止していぶきの友達を指さした。ショートカットというには長めの髪の、可愛い女の子――に見えるが、
「ねえこれ、瑛太君じゃない?」
「・・・・・・」
冷蔵庫からアイスティーを取り出そうとしていたいぶきの手が止まる。
「ぱっと見女の子にしか見えないくらい可愛いけど、亀井瑛太くんよね?」
子ども同士だと大きく変わって見えるかもしれないが、大人の目からすればわかることだ。結婚してた頃、幼稚園は行事しか見に行けなかった忍だが、たしかいつも仲良しの子がいたことを思い出す。
「なんで、気付くかなぁ」
半泣きのような笑顔で、いぶきは認めた。
「じゃあ、結婚を約束してた“たあくん”って」
「うん、そう。瑛太君のことだよ。彼は全然全く、私のことなんて覚えてないけどね」
ちょっと拗ねたように言って、いぶきは忍の隣に腰をおろす。
「ねえ、お母さん。どうして突然、このDVDを見ようと思ったの?」
「おととい浅倉さんとKAMEYAでご飯を食べてね。その時瑛太君を見たんだよ。実際顔を見て、あれ?って思って」
「もう、お母さんは無駄に頭の回転が良すぎて嫌」
一度プイっとそっぽを向いたあと、いぶきは忍に向き直り「で、浅倉さんとデートしたの?」と話題をそらしてきた。
「ゆっくり話を聞いたし、お母さんも話したよ。浅倉さんの奥さんと子供さんのことも聞いた」
「そうか……」
彼の過去を間違いなく知ってるだろうと思っていたが、実際いぶきは知っていたようだ。浅倉、もしくは彼の姉夫婦あたりから聞いたのかもしれない。
「私も、いぶきのことを話したよ」
「え、うそ」
「本当。バカにしてるって怒られるかなと覚悟してたけど、ちゃんとまじめに聞いてくれた」
あの夜缶コーヒーを買って、駐車場の隅に止めた彼の車でゆっくり話をした。
走りながらや、どこかの店で話すのは難しいと思ったのだ。
広い駐車場は六割方埋まっていたが、店から一番離れたところは幸いスカスカだった。
荒唐無稽な話なのに、どこか知っていたかのような雰囲気で浅倉は頷いていた。いぶきは話していないだろう。だが、何か思うところはあったのかもしれない。
彼がちゃんと真剣に聞いてくれることで、いつの間にか忍の目からは涙がこぼれていた。この人は信頼していい人なんだと、胸が苦しくなった。
だからつい、いぶきの「夢」の話もしてしまったのだ。
いぶきは“セレの子”と呼ばれる存在らしいこと。
魂の力が強すぎて、一つの体にその魂を入れておくと、子どもなら死んでしまうか化け物になってしまうこと。
だから人として生き延びるために魂を分割して、大人になるまで遠い世界に離しておくらしいこと。
無事大人になったら、もともとの世界でひとつの体に戻ること。
本当ならセレの子が消えたとき、育てた世界からはすべての記憶も記録も消えてしまうこと。でも忍の記憶だけは消さないよう約束してもらったこと。
セレの子の育ての親にはギフトがあること。
「そこまで話したの?」
目を真ん丸にしているいぶきに忍は頷いた。
「うん、話した」
育ての親の体内時計の進行は、セレの子が旅立つまで少しだけゆっくりになる。そのため忍は実年齢は四十歳だが、体内年齢は三十歳程度なのだ。それはもう一人、セレの子と同性の子どもを授かることが出来るため。自分の子を、確実に一人産める。それがギフト。
だが忍にとっては、離婚する前から受け取ることはないだろうと諦めていたものだ。
なのにいぶきの「夢」は、いつか生まれる妹に名前を付けることだという。それは、彼女が唯一残せる形あるもの、忍に残せる、いぶきがそこにいた証だから。
もし結婚をしたら子どもを産みたいと言った忍に、一瞬浅倉は青ざめ、続いて真っ赤になった。出産で妻子を失った彼の中で様々な葛藤があったと思う。
「それは、俺と結婚したら、俺の娘を産んでくれるって考えていいんですよね?」
「はい」
もしもう一度結婚するなら浅倉がいい。もう一人娘を授かれるなら、彼の子がいい。今まで考えたこともなかったのに、あふれ出したそれは、自分の正直な気持ちだった。
だが忍は、涙目になって勢いで求婚しようとした浅倉を止めた。
「今は感情的になっていると思います。お互い、少し考えましょう」
と。
「そっか。でも大丈夫だと思うな。浅倉さんはお母さんの魂の伴侶だもん。初めて会った時にピンときたんだよ。だから間違いないよ。よかった」
ほっとしたように大きく笑ったいぶきに、忍も微笑んだ。
「私も、瑛太君を見たときに同じことを感じたんだよ、いぶき」
いぶきは息を飲み、目を伏せる。
「うん。お母さんがそう言ってくれるなら、嬉しいな……」
「ずっと断り文句にしてたあれは、本心だったの?」
忍の言葉に、いぶきは「へへ……」と笑った。
いぶきは、幼稚園で初めて会った時から瑛太が大好きだった。
いつまでも一緒にいられると疑ってなかった。
親の離婚で二度と会えなくなると分かった時、身を引き裂かれそうな思いだったと言われ、忍は申し訳なさに胸が苦しくなった。
「ごめんね、いぶき」
「ううん、大丈夫。だってあのままあそこにいてもロクなことなかったよ。あの人、あれから三回は浮気してるし、今は自分の髪が薄いことに気付いてない痛いおじさんになってるし」
容赦ない娘の言葉に少し笑ってしまう。
「そんなに薄いの?」
「うん。おばあちゃんに写真見せてもらったんだけどね、大昔のトレンディ―俳優の髪型をまねてるおじいちゃんって感じだったわ。年相応にすれば若く見えるだろうにね」
先輩は今でも元夫の奥さんだ。
生まれた息子は高校生だが、絶賛反抗期だと聞いている。
「でも、中学の入学式でびっくりしたの」
いるはずのない人なのに、間違えるはずがなかった。
だが再会を喜んだのはいぶきだけだった。亀井瑛太はいぶきに気づくことはなかったし、美奈子の言うようにことごとくすれ違い続けた。
「瑛太君の隣には、いつもだれかしら彼女がいたしね」
歴代彼女何人になるんだろうね? 幼稚園の頃は、いぶちゃん、お嫁さんになってねって言ってたのにさ。
「忘れようと思ったんだよ。私がいずれ消えちゃうことが分かってからは特に。高校までは、歴代彼女の1人にでもなれたらって、一瞬血迷ったこともあるけど」
遠目に見ることが出来るだけでも幸せだった。
彼の母親が生きていれば気付いてくれたかもしれない。でも同じ土地に越してきたのは、母親が亡くなったからだ。
ずっと自分の気持ちと戦ってきた。
確実にこの世界から消えてしまうから、同じ世界にいても瑛太とは会えないんだと気持ちをかたく封じ込めた。誰かほかに気になる人が出来たことはないから、恋愛はしないものだと考えていた。誰に告白されても、心は全く動くことはなかったのだ。
残りの時間は、余計なことを考えなくて済むようにしようと思った。
KAMEYAのバイトは、もともと美奈子からのヘルプが最初だった。
その縁で、フリーターならうちで働かないかと誘われ、ある程度自由に休みを取らせてくれることもあり了承した。たまに帰る瑛太を、ほんの少しでも見る機会ができるのは、素直にうれしかったし、ひそかな楽しみだった。
「いつも違う女の子連れてたけど、もう気にならなくなってたの」
自分と彼は、違う世界にいる人だと割り切ってしまったのだ。
「なのにどうして? どうして今更」
突然瑛太の目に自分が映った。
彼は自分のことを何も覚えていない、何も知らない。なのに、彼がいぶきを好きになったことをいぶき自身痛いほど感じ、動揺した。
もう時間がないのにだ。
「瑛太くんから、また忘れられてしまうのはもう嫌なの。だから、彼の目に入りたくないの」
夏休み中、瑛太はバイトに入っていた。予定外のことだったらしいが、家族は喜んでいた。
美奈子の誘いで、成人式の実行委員にも参加すると言い始めている。
「だからバイトも委員もやめようかって」
「そんなのダメよ」
「うん……。たぶん、そうしても解決しないってわかってる」
彼の目には入りたくないのに、いぶき自身は彼を見ていたい。
「初恋こじらせてる自覚があるから、絶対誰にもバレないよう気を付けてたんだよ」
涙を浮かべて少し口を尖らせた幼い顔は、おそらく忍しか知らない素顔だ。
「そっか。でも、ほかの人は気付かないよ。いぶきはポーカーフェイスが得意すぎるもの」
「そうかな」
「うん」
今だっていぶきは否定することが出来たのだ。きっと上手にごまかすことが出来た。でも忍相手だから、恥ずかしさを我慢して告白してくれた。そのことが愛しくてたまらない。
「いぶきは、どうしたいの?」
「あのね。私しか覚えてないなら、瑛太君の笑顔を覚えていたいの。成人式は同じ中学だと式典の席も近いって思ってたから」
「そっか」
最初からいぶきは、最後に彼に会いたかったのだ。
「じゃあ、笑顔を見られるよう頑張ろうか」
いま、彼と無理やり離れても、きっと後悔しか残らないだろう。一番痛くても、一番いいと思うことを選んでほしい。
いぶきは少し目を閉じて、ふっきれたようにニコッと笑った。
「うん、そうだね。いい友達になってみる」
――ごめんね、瑛太君。頑張れって言ったけど、私は娘が可愛いから、娘だけの味方なんだ。
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