第6話 踏み出す勇気

 九月に入ったが、まだまだ陽射しは強い。

 あの日の翌日、忍は浅倉に自分の態度を謝罪した。だがそれ以降はできるだけ顔を合わせないように気を付けている。いつもよりちょっとだけ早く出社しているし、昼も弁当を持参して、外に食べに行ったり休憩所を使わないようにした。

 まだ暑いとはいえ普段は車通勤であり、給湯室の冷蔵庫も使えたので問題はなかった。弁当仲間も出来て結果オーライである。


 この日も弁当仲間の女子社員数名と、和気あいあいと弁当タイムだ。

「そういえば、娘さん今年二十歳になったんですよね。浅倉さんからは告白されました?」

 鈴木彩子からまるで、あそこのスーパーで卵が安いです的なノリで爆弾を落とされ、茶を飲みかけていた忍は盛大にむせた。彩子は二十五才のおっとりとした女子社員だ。

 忍が目を白黒させていると、パート社員の渡辺ともみと臼井佳代子も目を輝かせて忍のことを見ているのが目に入る。

「へ、変なところに入った。突然何を言うかと思えば。娘は二十歳になったけど、告白なんてされてませんよ」

 実際浅倉からは、付き合ってとも結婚してとも言われていない。ましてや好きなんて言われていないので、間違ってはいない。

 今社内に残っているのは忍以外にはこの三人だが、全員が既婚者である。ともみと佳代子は年は上だが子どもはまだ中高生で、彩子は新婚だ。

 まさか主婦に囲まれて、女子高生のような会話になるとは思わなかった。


「だいたい私、成人した娘がいる四十代ですよ」

 以前は子どものためにも再婚をと勧めてくる上司もいたが、ここ何年かはぴたりと収まっている。いい加減諦めたのだろう。つまり忍は恋愛や結婚からは対象外のはずなのだ。そう言うと、

「そう思ってるのは佐倉さんだけだと思いますよ?」

 彩子は、ほわわーんと効果音が付きそうなおっとりした口調でニッコリ笑う。

「んー、でも気付いてないんだったら、私が言うことじゃないですよねぇ」


 何をだ何を!

 そう問いただしたくなるものの、ともみと佳代子まで同調しているので忍はこっそりため息をついて立ち上がった。

「お弁当箱洗ってきますね」


 背中に華やいだ笑い声が響くが、あえて気にせず給湯室に向かう。

「まいったな」

 誰もいないのを確認して、ポツリと呟いた。


 あれ以来、浅倉とは文字通り挨拶しかしていない。

 声をかけられても聞こえないふりかはぐらかすかし、挨拶だけして通り過ぎている。

 我ながら子供っぽいとは思う。だが時間がたてばたつほど、前回の意味深な言葉が頭にこびりついて離れないのだ。すれ違っても、じっと見つめられているのを感じる。

 周りの噂から判断するに、最近の浅倉は、忍に対する好意を本人の前でもまったく隠さなくなったということらしい。

 忍が知らなかっただけで、まわりには公然の秘密だったようだ。


「ほんと、うそでしょ」


 いぶきには問いただす前に、「浅倉さんと、一度ゆっくり話してみたら?」と言われたきり、以前のような浅倉の話題は殆ど出されなくなった。

 悩んで悩んで思い切って、いぶきに父親が欲しかったのかとたずねてみた。シングルで育てたことが、忍の自己満足でしかなかったのかと怖かった。

 だがいぶきに微笑みながら、「それが浅倉さんなら歓迎だとは思ってるよ。今からでもね」と言われ、忍は激しく動揺した。


「でもね、それが私のためなら反対。私はお母さんの幸せな姿がみたいの。本音を言えば、お母さんの花嫁姿が見たいくらいよ」

「そ、それはお母さんのセリフだわ」

「うん、知ってる。似たもの親子で嫌になるね」


 今までも男性から、結婚を前提に交際を申し込まれたことはある。だがいつも丁寧にお断りしてきたし、それが後を引くことは一度もなかった。ましてや心を動かされたことなど一度もない。

 なのに浅倉に対してカッとしたことで、忍を固く覆ってた何かに初めてひびが入ったらしい。ポロポロと鎧が崩れていくような心もとなさに動揺していた。

 それに加え、いぶきの言葉が頭の中をぐるぐるし、どうしたらいいのかわからずに足踏みをしている。

 正直なところ、忍は浅倉を意識していた。

 挨拶しかしないくせに、目は浅倉を探してるし、耳は彼の声を拾おうとする。

 本当は休憩所に行きたいと思うのだって、我慢してるのだ。


 自分の人生に男性が入り込むことは二度とないと思っていた。

 誰かに心を捕らわれるなんて日は永遠に来ないと信じていた。

 自分の人生はいぶきと、光を見ることなく亡くなった心晴と共にあって、いぶきが旅立った後は、その思い出を糧に生きていくつもりだったのだ。

 どんな世界に旅立つのかわからないいぶきを、きっといつまでも気に掛ける。

 ずっとずっと愛していく。それだけは変わらないから。だから何も知らない相手がそこに入り込む日は絶対にない。――ないはずなのに。


 揺さぶられたくなかった。

 いぶきが消えるまで一分一秒が大切なこんな時に、余計なことなんて考えたくなかった。

 でも見えないはずの視線を背中に感じる。気付けば弱くなりそうになるから、気付かないふりを続ける。

 あと四ヵ月もすれば、彼も勘違いだと気づくはずなのだから。

 忍の想像の中で浅倉から気の毒そうな目で見られ、胸を抉られそうになる。

 最初から覚悟していたことなのに、誰からそうみられても構わなかったはずなのに。


「いぶき」

 昨日の娘の言葉が胸に刺さっている。亀井瑛太からまめなアプローチがあることをからかった忍に、いぶきはまじめな顔をして首を振った。

「あのね。たとえ私が彼に恋をしても、万が一お付き合いをしたとしても、彼は私を忘れてしまうのよ。何もなかったことになるんだよ」

 それは普段とは全然違う、何かをぐっと押さえた声で。


 心が揺れているのは娘もだったのだ。だからこそ感じる恐怖は忍の比ではないことを理解した。でも生まれた気持ちを大切にしてほしいと思ってしまい、だからこそ母親である自分がまず踏み出そうと思うのに――。

「十代以降、恋愛未経験のおばさんなめるなって状態だわ」

 まだ高校生のほうが上手に恋をするだろう。

 いっそ、付き合おうとか言われたなら、何か対処しようがあったかもしれないのにとも思う。毎晩、明日は話してみようと決意するのに、ずるずる日にちが過ぎ去る。

 それでも、いぶきが「夢」だと教えてくれたことがあるから、娘のために、何より自分の気持ちにけりをつけるために、忍は勇気を出さなくてはいけない。

 あの「夢」をかなえてあげられなくても、踏み出したことはいぶきの背中を押すだろうと思うから。


 それでも今の忍には、浅倉と話をするのはあまりにもハードルが高く、本当は途方に暮れていたのだ。


   * * *


「うわ、土砂降り……」

 まだ六時過ぎだというのに、夕立のせいかかなり薄暗かった。

 今日はいぶきが車を使うということで、朝は送ってもらい、帰りはバスの予定だった。車が一台なのは予算の都合だが、今まで特に不便はなかったのだ。


「コンビニまで走るかな」

 バス停までは徒歩五分ちょっとだが、この雨ではずぶぬれになるのは間違いない。コンビニまでなら走って一分。そこで傘を買えばそれほど濡れずに……

「いえ、無理ね」

 バケツをひっくり返したような雨だ。弱くなるまで待った方が無難だろう。もしくは無線タクシーを呼ぼうかと考えたが、いぶきは今日は外泊だ。帰っても一人のため、のんびりしようと決めた。たまにはどこかでご飯でも食べて帰ろう。

 そう決めて空を見上げたときだった。

「こりゃ、すごい雨ですね」

 真後ろから浅倉の声がい超えてビクリとする。

 雨の音で全く気付いていなかった。


「そうですね」

 昼間の彩子の言葉が一瞬脳裏をよぎるが、忍は以前の自分を思い出しながらゆったりと答えた。挨拶以外しないほうが不自然。変に意識しなければいいのだ。

 だいじょうぶ、普通に話せる。


「浅倉さん今帰りですか? 雨すごいから気を付けて下さいね」

 浅倉も車での通勤だったはずだ。この雨では視界がかなり悪いだろう。

 会釈して踵を返し、一度会社に戻るか休憩所でコーヒーでも飲もうかと考えていると、「あの」と声をかけられる。

「今日いぶきちゃん、子どもキャンプの指導でしたよね」

「あ、はい」

 たしかにいぶきは明後日まで、市主催の子どもキャンプ指導員のバイトだ。一瞬なぜ知ってるのかと思ったが、本人から聞いたのだろう。二人は「友だち」なのだから。


「あの、佐倉さん。今から俺と、飯食いに行きませんか?」

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