アクアリウムと夢紬ぐ人魚

静 霧一

第1話 アクアリウムに住む人魚


「博士、この少女どうしましょうか」

「うむ……どうもせざる負えないだろう」


 静まり返った研究所で、博士とその助手が、大きな球体上の水槽に入った少女を見つめ腕を組んでいた。

 この研究所は『人類の脳の進化と記憶』というものを世界最先端で研究しており、そして人類の英知の結晶がこの少女には詰まっている。

 水槽の中には数多くの機械が設置され、それが赤や青、緑や黄色などちかちかと発光をしている様子から、この少女は『アクアリウムに住み人魚』とも呼ばれていた。


 世界の崩壊まで残り3時間を切った。


 デジタルの赤い電光掲示板が1秒ごとに世界崩壊までのカウントダウンと刻み、この世界の最期をどう過ごそうかと、研究所の外では人類がこの狭い陸地を右往左往逃げ回っていた。

 研究所の所員も皆、愛する者の元へとすぐさま帰り、今この広い研究所の中には博士と助手しか残ってはいない。


 なぜこの2人だけがこの研究所に残ったかといえば、彼らが最後に愛を注いだものが妻でもなく子でもなく、この水槽の中の少女であったということだ。

 この博士は、科学というものには狂信的ともいえる思想を持っており、自らの生涯をかけて作った物とともに死ねるのなら本望だと本気で思っている節がある。


 そしてその助手については、もともと身寄りがなく、愛すべき人もおらず、博士に拾われてからというもの、博士を父親のように慕っていたために、結局のところ、この研究所に2人だけが残るというのは必然的な結果であったといえよう。

 どうもこうもなぜ世界崩壊にカウントダウンが設定されているのかといえば、人類の滅亡をコントロールできるまでに革新されてしまった科学のせいなのだ。


 人間というものはやはり生物の枠を抜け出せないもので、地球の浄化作用の循環システムに悪の判定を受けてしまったせいか、ある一部の人間が暴走を始め、挙句の果てに核戦争にまで至ってしまった。

 このカウントダウンは人類として生きた証を残すべき許された通告であり、最後に人類に残った一絞りの優しさでもあった。


 それもこれも人間の未知への探求心というものが引き起こした現象であり、それを実現してしまったのが科学という、唯一の人間の思想であった。

 博士もその科学思想に囚われた一人であり、自身の生涯をかけた研究として人の記憶をいかにして具現化するかという難題に取り組んでいた。


 記憶の具現化という着想は、とある都市伝説から閃いたものであった。

 その都市伝説というのが『アカシックレコード』、通称『神の図書館』とも呼ばれるものの存在であった。


 その『アカシックレコード』にはこの世界の知識や法則、過去から未来までの記憶のすべてが保管されていると囁かれている。

 歴史において、必ず預言者というものが度々現れるが、その預言者の誰もが『アカシックレコード』へアクセスしたと古い文献には残されている。


 博士は、科学の進歩による世界の崩壊を何十年も前から予見していた。

 だからこそ、博士が作り出した技術や数式、そして人類が積み上げた歴史や記憶を、いずれまた生まれるであろう新人類に託すべく、『永久的持続記憶保管庫』としてこの少女を創り上げたのだ。


 人類の暴走によって、博士の見つけ出した科学の功績を破壊されるのは如何せん納得などはできず、博士にとって最後の悪あがきであったのかもしれない。


「ラムよ。すまなかったな。こんな時代に君を創ってしまって」


 博士は球体の水槽の前で、膝をつき、水槽を手で擦りながら涙を潤みながら言った。

 人工心肺装置につながれ、何本もの管が体に刺さった少女は相変わらず水の中でゴボゴボと泡を立てているだけであって、博士の言葉に反応を示すことはなかった。


「博士、最後の準備が整いました」


 助手は大きなパソコンの前で一生懸命に動かしていたキーボードを打つ手を止め、ふぅと一息漏らした。

 緊急時の処置として、この水槽は独立できるような仕組みとなっている。

 本来であれば、人工心肺装置は外部から接続され、少女の生命を維持しているのだが、緊急時においては最後の手段として、少女の中に組み込まれた生命維持ユニット、つまり人工心臓が稼働するようになっていた。


 電光掲示板に赤く表示された時計は残り30分を切った。


「さて、アルバード君。今までのお勤めご苦労であった。最後にコーヒーでも飲んでいかんかね」

「ありがとうございます博士。是非とも頂きたいですね」


 それを聞くと博士は温めていたお湯を持ってきて、長年使っているマグカップにインスタントコーヒーの粉を適当に何匙か入れ、慣れた手つきでお湯を注ぎ入れた。

 お互いが議論を重ねた落書きだらけのテーブルに、湯気の立ったマグカップが2つ置かれる。


「世界の終末に、こうやって日常をくつろぐのも悪くはないですね」

「あぁ。やはりコーヒーというのは、至高の飲み物だな」


 彼らは息が合ったように、同じタイミングでマグカップを手に取り、コーヒーを一口すすった。

 博士はこの物悲しい研究室に少し寂しさを覚えたのか、山積みになった資料の上に雑に置いてあった赤いポケットラジオを持て来て、電源を入れるとガチャガチャとチャンネルを合わせた。

 ピーガーというノイズが鳴り響き、そのノイズが徐々に小さくなっていくと、古い歌が一曲流れているところに周波数が合わさった。


「あぁ、懐かしいな。ジョン・レノンのイマジンじゃないか」

「私も聞いたことありますよ。生まれていませんでしたけどね」

「誰だろうな、こんな瞬間にこんな皮肉ったような歌を流す輩は」

「いつの時代も、人は死の直前まで生きることを願う生き物なんですよ」

「相変わらず、欲が深いな。人間とは」


 彼らは他愛もない談笑が、緊迫した空気を忘れさせるかのように和ませてくれた。

 電光掲示がいよいよ残り5分を表示し、研究所のアラームが警報音をけたたましく鳴らし始める。


「よし、アルバード君。最後の仕事だ。このエンターキーを押せば、あの少女は完全にこの研究所から独立し、地下の水路を辿って海へと放出される。用意はいいかね?」

「もちろんですよ、博士」

「悲しいな。こんな最期だとは思ってもいなかったよ。さらばだ、ラム」


 それだけを言い残し、博士はボタンを押した。

 外部の人工心肺が外され、少女の生体維持ユニットが稼働し始まる。

 ちょうど胸の真ん中のあたり、薄い白肌の上からでもわかるほどの赤い光が灯り、少女に初めて命が吹き込まれたことを確認すると、博士は優しく微笑んだ。


「オトウサン……」

 水槽の中で、少女は上手く動かない口を一生懸命に動かし、ただ一言、視界に映った最初の人の名前を呼んだ。

 それはたった一瞬であったが、少女は博士の姿をはっきりと脳裏に焼き付けた。


 そしてそのまま少女の視界は暗闇へと落ちていき、再び目を閉じると深い眠りについた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る