瓶の中

 初夏だった。

 夜になっても気温は下がることはなく、少し歩いただけで汗が吹き出した。

 健康のためウォーキングを始めたのは春先のことだ。その頃はまだ肌寒く、早朝に歩き体温を上げてから仕事に出かけた。

 だんだんと暑くなり、出勤前に汗を流す必要が出てきたため、仕事終わりに歩くようになったのだ。

 街灯がぽつりぽつりとある緑道を歩く。

 少々暗いけれど、ウォーキングやランニング犬の散歩など、案外人通りが多かった。車も通らないし、今では暗いほうが何も気にせず歩けて良いかもしれないと思い始めていた。

 その日は珍しく誰とも顔を合わせていなかった。

 毎日同じ時間に歩いていると、大抵見知った顔とすれ違う。

 私が知らないだけで、サッカーや野球の大会がテレビ中継されているのだろうか。

 随分と前、サッカーの大会があったときには、ほとんどの家から歓声が聞こえてきていた。

 私は歩きながら耳を澄ましてみる。

 虫の声と、緑道の中央を流れる小川のちょろちょろとした水の音だけが耳に入った。

 環状線で緑道が途切れる場所までくると、Uターンしてもときた道をまた歩く。

 何往復するかは、その日の気分や疲労度によって変わる。

 今日はこのまま家に戻ろうと決めた。

 何故だろうか。

 最初に気づいたのは虫の声が止んだことだった。

 いつのまにか私の足音だけが夜の闇に響いていた。車の音も、遠くを走る電車の音も聞こえない。

 次に異様に寒くなったことに気づいた。

 夜になればもちろん気温は下がる。けれどこんなに急激なのはおかしい。

 歩き続けているのに、腕にうっすらと鳥肌が立った。

 緑道から離れ、大通りへ行こう。そちらなら必ず車が走っている。そう思ったときだった。

 季節外れの桜の花びらを見た。おくれて甘い花の香りも。

 思わず立ち止まる。

 花びらは地面に落ちたように見えたが、探しても見つからない。花の香りも桜のものとは思えなかった。見間違いかと歩き始めると、ふたたび視線の端をひらひらと舞い落ちる。

 近くに狂い咲きしている桜の木でもあるのだろうかと見回した。

 少し離れた木の下に、幽霊が立っていた。

 幽霊だと、瞬間的にわかった。

 和装の女性だった。

 向こう側の風景が透けていた。

 緑の生い茂る桜の木の枝に、そっと右手を伸ばしていた。袖がめくれないように、左手が上品に添えられている。

 手を伸ばされた枝は、そこだけ幻の桜の花をつけていた。

 舞い落ちる花びらは地面に落ちる寸前に、ふっと闇に溶けてしまう。

 甘い香りと冷たい空気は、明らかにその女性のほうから流れてきていた。

 驚きと恐怖はあった。けれど、その場を去ることも惜しいと思った。

 とても風情がある、とでも表現したら良いだろうか。

 しばらく眺めていると、同じように彼女を見ている人物に気づいた。

 学者風の男性だった。

 男性も私に気づくと、小さく頷いた。挨拶だろうと思いこちらも少しだけ頭を下げた。

 男性はそんな私を見て何度も頷くとこちらにやってきた。

「妻です」

 それがあの女性の幽霊を指しているということに、すぐには気づかなかった。

 私は男性のほうを見る。男性の視線は女性の幽霊を見つめていた。

 お悔やみを言うべきか迷って、迷っているうちにタイミングを逃してしまった。

 沈黙が続いた。

 私は立ち去るタイミングすらつかめないでいた。

 亡き妻との逢瀬を邪魔してしまっているはずだ。何も言わずに立ち去っても問題ないだろう。

 男性を窺い、そして最後にもう一度と思って女性の幽霊を見た。

 すると最初に見たときよりも透けていることに気づいた。鼻が香りに慣れたせいなのか、花の香りも、もうわからなくなっていた。

「妻のね、幽霊が出るって聞いて、知り合いの人に頼んだんです。瓶に詰めてほしいって」

 男性が指をさす。女性の幽霊の足元に、蓋のあいた瓶が転がっていた。

「蓋をあけるとこうして妻と会えるんです。だから毎日のように妻に会っていた。でも、瓶の中の妻はその度に少なくなってしまったみたいで。

今ではあんなに薄くなってしまった」

 男性は淡々と喋った。私には一瞥もくれないので、独り言のように感じた。

「だから、妻と会うのは今夜で最後なんです」

「そうですか」

 私が返すと、男性はちらりとこちらを見た。

何を考えているのかよめない表情をしていた。

「この花の香りは奥様のものなんですか?」

「ええ、そうです。幽霊は香りなのかもしれませんね」

 男性はそう言って深呼吸する。女性の幽霊を取り込むかのように。

 そしてまた男性は女性の幽霊を見つめ始めた。

 できるだけ呼吸を浅くして、私はそっとその場を後にした。




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