パンドラの棺
市川冬朗
第1話 2027年 夏
何とも言えない気怠さで目が覚めた。
他に誰もいない部屋で寝返りと舌打ちを打つ。
涼しくて寝心地が良いと触れ込みの掛け布団を蹴とばすように、初めに右足、続いて左足を出す。
暑い。
浅く溜め息を吐く。
喉も乾いた。
さっと起き上がって、冷蔵庫に向かう事を想像する。
冷蔵庫まで5歩ほどの距離の途中で、おそらく床に転がっているだろうスマホを拾ってエアコンのスイッチを入れる。
そうすれば、なんとか生きる気力も湧くだろう。
つい2週間前までは、固定式電子メイド"アリサ2号"がいたから、室温に応じてエアコンのスイッチを入れて部屋を一番モチベーションが上がる温度に調整してくれただろうし、話しかけるだけで冷蔵庫内にある飲み物や巨峰味のパピコのことを教えてくれたり、転がっているスマホの位置を教えてくれたりしたはずだが、今は、もう、ない。
いや、厳密に言えばまだ本体はあるのだが、それは抜け殻だ。
震度7の地震にも耐えられるという触れ込みの、頑丈な精密機器は、14日前にとあることが原因で蹴とばした拍子に壊れた。
暑い。
小さく声に出して呟く。
このまま死んでしまいたい。
少し、本気でそう思う。
それは、もちろん、暑さゆえ、ではない。
大学3年から3年間付き合った彼女、
理由がこんなにはっきり分かっているのに、解決できないことがあるなんて、辛すぎる。
ここ2週間、まともに何も食べていない。
バイトも休んでいる。
しかも、無断で。
フリーターには致命的な事実だ。
最初の3日は、電話がかかってきたが、無視したというより、出る気力が無くて放置していたら、その内鳴らなくなった。
以来、誰からも連絡がない。
これが初めて付き合った彼女だから、こんなに辛いのか、それとも、本気で愛していたから辛いのか、あるいは、その両方なのか。
この3年間、ほぼいつも一緒にいただけに、今、独りでいると、何も発想出来ない。
行動原理のすべてが、紫音にあったのだ。
死んでしまった方が楽なのか。
布団を剥ぎ、少し楽になった体と心のどこかでそう思う。
しかし。
心のどこかで、希望を捨てきれない。
別れた恋人同士が、やり直すこともあるだろうし、紫音を越える、完璧な心と体の相性を持った誰かが現れるかも知れない。
希望なんて、普段忘れているくせに、絶望に陥ると必ず現れる。
なんなんだ、一体。
それにしても。
暑い。
掻きむしりたくなるような頭皮と、溶けそうな脳で、ぼんやりと、2、3日前(最近の記憶の時系列がひどく曖昧だ。もちろん、暑さのせいもあるが、それだけではない)のニュースで、ついに日本のどこかで最高気温45度を記録したと言っていたのを思い出す。熊谷だったか、舘林だったか。
45度。
もう、どうにもならないんじゃないか。
でも、何が?
とにかく。
今日一日、頑張ってみよう。
そうすれば。
紫音から、泣きながら連絡が来るかもしれない。
あるいは。
アイスを買いに出た先のコンビニで働いている美少女が、俺に一目惚れするかもしれない。
気怠さ、と銘打たれた彫刻の様に、ゆっくりと体を起こすと、起き上がり、床に落ちているスマホを拾い、エアコンに向ける。
…
…
…
スイッチアプリを3回押しても付かない。
スマホの充電は…12%。
一応有る。
でも、なんか変だ。
電波充電式だから、部屋の中のどこに置いても充電されるはずなのに。
12%?
見ると、画面のアプリの一つが点滅している。
これ、何のアプリだっけ?
TEMPOC?
アプリを起動させる。
ポップアップが表示された。
一瞬、心の底からすべてが嫌になる。
そこには「電気料金未払による強制解約のお知らせ」という文字が点滅していた。
この世は、まさに、地獄だ。
あらゆる厄災は、連続して訪れる。
そう、思った。
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