ハルカの謀略
「失敗、してもらう……?」
ヒメリは汗がこめかみを伝っていくのを感じた。鼓動と体温が自分でもわかるほど上がっていく。
「どういう意味ですか。それ」
「言葉通りの意味しかありませんが」
声を震わせるヒメリに対して、ハルカは睫毛も揺らさない。
「作戦に参加させたくないだけなら、そう言えばいいだけじゃないですか。どうして失敗させるなんて、そんなことまでして……」
「挫いておく必要があるからですよ。彼の自信をね。今後、ただの成り行きで参加したアドミニスタの仕事で認められたと調子に乗ってもらわれては困るんです。あなたもいたあの会議でも、しゃしゃり出て発言してきたことに、反感を覚えたメンバーは少なくありません」
「そんな理由で……?」
あまりの幼稚さに言葉も続かない。
わからないのは、ハルカがそのことをヒメリに打ち明けてきたことだ。クロノに失敗させることが目的だとしたら、わざわざヒメリに伝えに来る必要はないはず。
黒く苦い予感が胸をついて、ヒメリは恐る恐る訊ねる。
「ハルカさんは、それをわたしに話してどうしたいんですか? まさか、クロノさんを妨害するために、わたしに協力させようなんて――」
だがハルカは鼻で笑ってきた。「そんな低レベルのあなたに何ができるっていうの?」とでも言うように。
「私がここに来たのは、あなたから彼に伝えてもらうためですよ。ああいう子供は、自分が裏で疑われていると知った時点で逃げますから。作戦が始まる前に逃げてもらった方が私たちにも余計な手間がかからない。ただそれだけのこと」
ハルカはクロノのことを完全に見下しているのだろう。言葉には気遣いは欠片も感じ取れない。
「絶対おかしいです。それだけのためにそんな計画を練るなんて。本当は彼が怖いんじゃないですか? リーグに所属していないクロノさんに手柄を取られそうだから」
いい加減ヒメリも怒りが湧いてきてそんな挑発をする。するとハルカはヒメリを冷たい眼差しで数秒見下ろした後、人差し指を立てる。
「一つだけ昔話を」
「昔話? こんなときに――」
「私も、彼の昔の名前を一つ知っているんですよ」
「え……」
「私が初めて出会った当時の彼の名前は、ヴァニタス・ヴァニタートゥム。とある弱小リーグの中で一人だけ突出した実力を持つことで有名なプレイヤーでした」
ヴァニタス・ヴァニタートゥム。
それは旧約聖書で語られる言葉で「空虚の中の空虚」「すべての虚しさ」を表す言葉だ。
「彼の活躍ぶりは凄まじいものでした。鬼神の如く、という形容はいささか使い古されている表現かもしれませんが、まさしくあのときの彼は鬼のようだった。私たちが苦戦している隣で、顔色一つ変えず淡々とモンスターを殺戮していった。私たちが攻略目標にしていたあるダンジョンに潜むボスモンスターすらも、後からやってきたはずの彼が瞬く間に最奥に到達し、討伐してしまった」
彼女はその記憶の中にどんなクロノの姿を思い描いているのか、ヒメリには見えない。
わかることは、彼を語るハルカの目には、憎しみの色が混じっていることくらいだ。
「彼のいたリーグは、彼のおかげで私たちのリーグよりも上位に上り詰めました。ですが、私がブリューナで彼を見かけたとき、彼の表情は全く晴れていなかった。それどころか深く深く、泥の沼の底をさらに自ら掘っていくように暗く沈んでいたのがわかった。彼が当時所属していたリーグを抜け、姿を消したのはその直後でした」
ブリューナにはコンクエストリーグのランキング掲示板が設置してある。
ハルカはその掲示板の前にいたクロノと一度目が合ったのだそうだ。
「人の目を見て身震いしたのはあれが生まれて初めての経験でした。よくできたアバター……人の表情を忠実に再現するFMT(フェイシヤル・モーシヨン・テクニクス)システム越しのものとはいえ、ゲームの中の人間にあんな目ができるものなのかと、私は逃げるようにその場を後にしました」
ハルカの話に出てくるクロノの印象は、ヒメリが彼に対して抱いているものと大分乖離しているように思える。とても同一人物とは思えないが。
「その後私たちのリーグは彼が去ったリーグを容易く追い越し、ランキングにも載ることができた。私たちは喜びましたよ。私たちの目の前から勝利を奪っていったリーグが、彼一人いなくなっただけで面白いほどに瓦解していったのですから」
「なら、別にクロノさんを嫌わなくても」
「あなたにはわからないのでしょうね。この悔しさが。コンクエストはリーグ同士の戦い。攻略は競争でありどちらが先にいたかどうかを論じ合うのは野暮というもの。それでも――」
攻略を進めることなく最初の街ウェスナをぼんやり歩いていただけのヒメリには、確かに彼女の気持ちは知れようがない。
ハルカはヒメリが人生で一度も抱いたことのない感情をその大きな胸に秘め、今も引きずられている。
「そんなひとときの彼の活躍によって私たちは負けたのかと、血が滲むほど拳を握っていたのを覚えています。リーグに所属していなければコンクエスト専用のコンテンツは攻略できない。彼は自分一人の力を誇示するためにそのリーグを利用したのです。当時二十人いた私のリーグは、たった一人の少年に負けたようなものです」
「でもそんなの、単なる逆恨みじゃないですか……!」
「なんとでも言いなさい。彼は今では所詮部外者。彼のような不確定要素、余計な虫は今のうちに排除しておかなければならないのですよ。また……振り回されてなるものですか」
おそらく、クロノはハルカたちのことを覚えてすらいないのだろう。巨獣が足元を這い回る鼠を気に掛けないように、クロノに歯牙にも掛けられなかったのだ。
席から立ち上がり、ヒメリの横を通り過ぎてドアの前に立つ。一度立ち止まると、頭半分だけ振り返った。
「彼とスピカさんにはこの件とは無関係の用事を任せました。しばらくはここにも戻ってこない。あなたもほとぼりが冷めるまでさっさと別の街に逃げなさい。彼が逃げた後で、いつまでもこんな場所で待っているのも辛いでしょうから」
結局のところ本来はそれを伝えにきただけなのだろう。彼らの計画通りに行けば、ここには誰も戻ってこないかもしれない。用済みのヒメリは、さっさとどこかに行けと。
「待ってください!」
嘲笑するハルカに、ヒメリは椅子を鳴らして立ち上がり詰め寄ろうとするが、
「少し喋りすぎましたね。安心なさい。ここはウェスナであり、カリストは私たちウェスナアドミニスタが捕まえる。街に平和が訪れることに変わりはないのですから」
眼鏡の奥に不信の光を残しそう言い捨てて、ハルカは部屋を出て行った。
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