ロキコンプレックス
木漏れ日の豊かな安全な場所にキャンプを変え、休息アイテムの香茶を飲みながら、アリスとの話を一通りスピカに打ち明けた。
「なるほど。新しい自分になって再出発をしたがる、か」
ふむ、と視線を横に長し思考顔で顎に手を当てるスピカ。
「聞いたことがある。そういうの、ロキコンプレックスとも言うらしいぞ」
「え、かっこヨ……俺、リセットなんちゃらよりそっちのがいいわ」
「自分で選ぶものじゃないんですけど」
ヒメリのツッコミを無視して、クロノはあたかも知識人のような顔でにやりと笑う。
「自分の姿を偽って暗躍するトリックスター、北欧神話のロキにちなんだネーミングだな。コンプレックスにはいろいろ種類があるんだが、有名なものではエディプスコンプレックスやエレクトラコンプレックスなど、神話や逸話なんかのエピソードにちなんで名前をつけられたものが多い。それもその一種だろうな。誰にでも何かしら一つは当てはまるから、別に恥ずかしい話じゃない。ふっ、俺はロキか。悪くないな」
長々と得意気に語るクロノを無視して、ヒメリが感心顔で訊ねる。
「わたしも初耳でした。本当なんですか?」
すると、スピカは即答した。
「嘘だ。今つくった」
「゙あーっ! 嘘なのかよー!」
あっさり覆されてクロノが頭を抱えるが、その様子をスピカは懐かしそうに眺めて微笑んでいた。
「ふふっ、懐かしいな。昔は何度もこんなやりとりをした」
あれだけ怒っていたのに一転して微笑むスピカを前にして、ヒメリは恐る恐る訊ねた。
「スピカちゃん、もう怒ってないんですか? 急にいなくなって、名前まで変えられたのに」
訊かれて、スピカは数秒顎に手を当てて悩んでいたが、
「別にもう怒りは湧かないな。ソウタが突然いなくなったときはショックだったし、さっきソウタだとわかったときは恥ずかしながら感情が抑えられなかったのは事実だが」
そう言ったスピカは自らを抱くように腕を回し、表情は少し翳りを見せた。
「あんなことがあれば、しかたないことかもしれないなって、思うから」
「あんなこと?」
ヒメリが訊くと、彼女は片手をひらりと振った。
「こっちの話だ。あまり外に持ち出す内容でもないからな。とにかく、事情はわかった」
仕切り直すように軽くかぶりを振って、スピカは続けた。
「むろん、急にソウタがいなくなってしまったときは腹が立った。でもそれはソウタ本人にじゃなくて、そうなった状況に腹が立っていたんだ。ソウタはうまくいかなくても誰かに怒りをぶつけるような男じゃなかったし、わたしはそんなソウタが仲間でよかったと思っていたから」
「それだけで許しちゃうんですか?」
「ソウタは怒らない。だからわたしももう怒ったりしない。長らく会っていなかったとはいえ、一緒に過ごした時間の中で持っていた印象はそうすぐに変わらないよ」
「う、うーん、そういうものでしょうか」
「むしろソウタには沢山助けられたんだ。ソウタがそう簡単に人に恨みを抱かれるようなことをする人間でないことはわたしがよくわかっている。いつも真っ直ぐで、わたしの冗談にいつも騙されるのに、毎回新鮮な驚き方をしてくれるんだ」
「そっか。本当は人を疑わない人なんですね。リーグに入れないわたしをここまで連れてきてくれたのも、きっとクロノさんのそういうところに助けられたんだと思います」
ちょっと変わってるけど、良いところはあるのだ。
「は? めちゃくちゃお前を疑ってるが? 猜疑心マシマシだが? なんでお前リーグ入れねえの?」
「言いなおします。人の疑い方がひどく単純で雑なんですね」
なあんでいい話になってきてたのにこの男は余計な茶々を入れるのかとヒメリは微笑みをひくつかせる。
「めり子なんだか俺に当たり強くなってきてない……?」
「気のせいですよ。ロキコンのクロノさん」
「……」
一撃でしょげはじめるクロノは放っておいて、ヒメリは改めて訊ねる。
「ところでスピカちゃんはなぜこの辺りに?」
まさかクロノと同じような理由ではないと思いたいが。
「わたしが所属しているブランキストは今、コンクエストリーグではなく、アドミニスタリーグとして動いている。わたしはその仕事でこっちまで調査にきたんだ」
「アドミニスタリーグ?」
また出てきた知らない単語にヒメリは眉根を寄せて首九十度。
「小さい治安維持機構みたいなものだな。一つの街に大体一つはある。大厄震の後、プレイヤーたちは混乱して規則もなく無秩序になりかけた時期があっただろう? だから秩序を形作る組織が必要だったんだ」
「あー、なるほど。警察みたいなものですね」
スピカは頷く。
「警察組織と言えば聞こえはいいが、言ってしまえば私設の暴力抑止組織だからな。戦闘の腕前に自信がある集団でないといけないし、だからほとんどが当時名が通っていた攻略専門のコンクエストリーグに白羽の矢が立ったわけだ」
目の前にいる麗しい女騎士は、街の治安機能を担っているリーグの一員で、元はトップクラスのリーグのメンバーということらしい。
「じゃあスピカちゃんって、結構凄い人なんじゃ……」
呟くと、補足してきたのはクロノだ。
「ブランキストはコンクエストリーグの中でも元々ワールド三位以内常連だったからな。スピカの名前を知ってるやつは山ほどいる」
「はえー」
異次元の人を見るような目でヒメリは見目麗しい女騎士を見上げる。
「じゃ、じゃあ今はその任務中ってことなんですね。なんかエージェントとかそんなのみたいでかっこいい!」
羨望の眼差しを受けてスピカは謙虚に受け流す。その仕草も賛辞に慣れているような流麗さすら感じられる。
「そんな大層なものではないさ。今回の仕事もどちらかと言うと雑用みたいなものだ。そもそもブランキストの管轄はこの辺りの街ではないからな。わたしは他のアドミニスタから頼まれてここまで来たんだ」
「へー、じゃあアドミニスタリーグ同士も仲が良かったりするんですか?」
「ああ。各街と相互に情報を共有している。すっかり顔なじみになっているからお互いの街の出来事を話し合ったりするんだ」
「へーっ、なんだか楽しそう!」
「仕事は結構堅苦しいものだぞ? 大厄震が起こした環境に混乱して迷う人たちや、それを機に好き勝手に振る舞う輩を抑制するために動いているからな。わたしは報告会議に向けて資料を集めていて次はウェスナに向かう途中だったんだ。この辺りの景色に懐かしさを感じて歩いていたら、たまたま二人が話している声が聞こえてな」
「そうか。じゃあさっさと行け。俺はギルドリーグの仕事中なんだ。お前に構ってる暇はない」
「えっ」
クロノが話に割り込んできてシッシッと手を振ると、途端にスピカはショックを受けたようにタジタジする。
「な、なぜだ?」
「なぜって任務中なんだろ。ほれ、俺たちのことは放っておいていいからさっさと行け」
「で、でもっ……こんなところにソウタたちを放っておけないし……」
「こんなところって、ここのモンスの最高レベル17だぞ。しかもラトオリの正門の近くだし。お前はアドミニスタの任務があんだろ。俺たちに構ってる暇なんてないんじゃねえの」
「う…………ま、まあ任務と言っても簡単なものだし? 頼まれた期限にはまだ余裕もあることだし? わたしが少しの間、ソ、ソウタたちに付き合ってあげても」
「別にいーよ。手伝ってもらうほどの仕事じゃねーし」
「うぅ、でも………………や、やだっ」
悉くクロノに反論され段々余裕がなくなって自分の感情を素直に表に出してくるスピカ。一輪挿しの花のように凜としていた彼女は、今や幼い少女のように直情的に眉根を寄せて視線で訴えている。
クロノは諦めたように溜息をつく。
「……じゃあ、パーティ組むか」
「い、いいいのかっ!」
そのクロノの一言で、ぱあっとスピカの顔が明るくなる。
「どーせ何言ったって後ろついてくるだろ」
「そんなことはないぞっ!」
「うそつけ。いつのまにか近くにいて参加したがるいつもの流れと同じじゃねえか」
「そ、それはだなっ。わたしはただソウタたちが心配なだけで……」
なんだかこなれているような言い合いだ。一緒のリーグにいたときも、二人はきっといつも同じようなやり取りを繰り返してきたんだろうと端から見てもわかるような。
「あぁ、なるほど」
少し疎外感を感じて元リーグメンバー同士の仲の良さに羨ましさを抱きつつも、ヒメリは一人合点して微笑んだ。
スピカがクロノに対して怒らないのは、どうやらそういう方面の感情も交ざっているからのようだと、わかったのだ。
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