第71話 ケーニヒスベルク空襲

『街に空襲があった。1944年の夏の日だ。

 イギリスの爆撃機が、バルト海の向こう、ドイツ占領下のデンマークの方角からやってきて、ケーニヒスベルクの夜空を飛び交った。

 爆裂する炎と音。

 僕らは死ぬまでそれを忘れないだろう』



 ドイツ軍がソビエト軍に電光石火の攻撃をかけ戦端を開いた日、1941年6月22日から23日にかけての夜。

 東プロイセンの中心的都市ケーニヒスベルクは爆撃を受けた。

 旧式のソビエト爆撃機イリューシンが、遠く離れた赤軍の空軍基地から飛来し、港の埠頭とガス工場に爆弾を落としたのだ。

 だがその夜襲での、市民への直接的な被害は少なかった。

 機体に精密爆撃を成功させるだけの性能があったかは、はなはだ疑問だが、とりあえず街の主要部分は被害なく、市民生活は粛々と続けられた。

 この時点ではまだこの地から避難しようというものは少なかった。

 ドイツ軍は勇猛果敢に戦い、ロシア人たちの土地を赤軍から解放している。

 しきりとそうした宣伝が為されていたからだ。



 二か月後の8月29日夜、またもソビエト軍の空襲があり、2機の長距離爆撃機が襲来した。

 三日後には3機の爆撃機がモスクワ南東のラメンスコエ飛行場から飛び立ち、ケーニヒスベルクに向かったが、そのうちの一機は目標まで到達できず、メーメル(現在のリトアニアの都市クライペダ)までが限度であった。


 そののち、ドイツが攻勢に出ている間、ケーニヒスベルクの空は束の間の安息を得ていた。

 制空権はドイツ軍にあり、先日の爆撃はたまたま飛来した赤軍機による偶発的なものだ、そう市民は信じていた。

 総統は言う。ドイツは無敵で正しい。ドイツの東方であれ北方であれ、ドイツの地は共産主義者が踏むことはない。


 しかし平穏が破られたのは1943年春だ。

 4月1日、当時ソビエト唯一の戦略爆撃機だったペトリャコフPE-8が、市内に5000キロ爆弾を落とした。

 これは当時のソビエト軍の使用する爆弾の中では、最重量級のものだった。

 この攻撃では多くの建物が破壊され、住民の命も奪われた。


 オペラプロジェクトのバリトン、ゲアハルト・シュミットが市の中心地でホテル業を続け、市場で買い物をしたりトラムに乗ったり、両親の家から通勤し、ユダヤ人少年『ニコラス』を迎えたのは、こうした時期だった。


 この街を去ろうとする人々が増えたのもこの時期だ。

 だが戦線はまだはるか東や北で、ドイツ軍の精鋭部隊はウクライナの地で赤軍を撃滅し続けている。

 そうした切れ切れの景気のいい情報がラジオで伝えられ、映画館ではニュース映画が流れていた。

 だがみんな気付いていたのだ。

 なにかがおかしい。

 なにかの歯車が狂っている。

 総統や宣伝省は大勝利を唱え、ナチスの大管区指導部は若者たちの増員を鼓舞するけれど、何かが違う。


 海とポーランドに面してドイツ本国と繋がっている東プロイセンに、東からウクライナ人やベラルーシ人が逃げてきた。

 スターリンの赤軍、共産党の苛烈な指導に危機感を覚えた人たちだ。

 本国からも、ドイツが保護したヨーロッパの国々……ベルギー、フランス、チェコ等の人々が、スラブ人を去らせた後の労働力として送りこまれている。

 だがそれと逆行する形で、ぽつりぽつりと絶え間なく、反共産党の人々が家財道具を荷車に積んだり、背負ったりして逃げてきた。


 でも、ここはドイツ軍に防御されているし、ここまでは赤軍もくるまい。

 そう皆は思っていた。


 状況が一変したのは、次の年の夏だ。


 赤軍の空襲しかなかったこの都市に、イギリス軍は目を付けた。

 中立国のスエーデンやドイツ占領下にあるデンマークを飛ぶことになるため、長距離爆撃機でも難しいと思われていたが、あえて踏み切る目的は二つあった。

 一つは、東プロイセン最大の都市を爆撃させることで士気を喪失させるため。

 もう一つは、ソビエトとの戦争を続けてるためドイツと結託しているフィンランドに、警告を与えるためである。

 ケーニヒスベルクへの航空攻撃が可能なら、フィンランドの首都ヘルシンキへの爆撃もまた可能だと、知らしめる目的があったのだ。

 ドイツと結託することを辞めよ、この戦争から手を引けと言うメッセージをその攻撃は帯びていた。


 1944年の盛夏も終わる、8月26日から27日にかけての夜。

 イギリス空軍の第5爆撃機隊は174機のランカスター爆撃機を飛び立たせた。

 アブロ社の開発した、大容量の爆弾倉を持つ四発型の戦略爆撃機のパイロットは、カナダ人とイギリス人で占められ、スエーデンとデンマークの上空を横切り、バルト海を進んだ。

 本来超重量級の爆弾まで積める性能だが、この長い飛行距離を考慮し、小さめの爆弾が積まれていた。

 ケーニヒスベルグ郊外のマウラネンホフ地区の郊外、市民農園や体育施設、アルトロスガーデン、の周囲で爆弾が投下され、同時に市の南東部も爆撃を受けた。

 いずれも墓地や高級住宅街の多い地区だったが、地区軍事事務所、地区軍事司令部等の近くでも爆弾がさく裂し、被害が出た。

 この夜の爆撃でケーニヒスベルクで失われた命は、約1000人である。


 3日後8月29日から30日にかけての夜間爆撃は、この第一波より大がかりで、さらに悲惨なものになった。

 189機のランカスター爆撃機がギリギリの燃料を積んで飛来、今度は市の中心地に爆弾の雨を降らせた。

 ドイツの夜間爆撃機がこれを迎え討ち、18機を撃墜したが、残りの171機は旧市街の歴史的遺産が多く残る地区を重点的に爆撃した。

 奇妙なことに、軍事施設や鉄道駅、線路、要塞など、本来最重要と見做される『軍事目標』は、今回の爆撃から除外されていた。


 プレーゲル川の中州、哲学者カントの墓所があるため『カント島』と呼ばれるクナイプホフ、旧市庁舎だった博物館、大学、オペラ劇場、ケーニヒスベルク城等、中世以来の建造物が徹底的に破壊され、ほぼ完全に瓦礫と化した。

 それらの一部は、戦後になってもソビエト政府からの修復許可が出ず、廃墟のまま残された。

 なかでも14世紀に建てられたケーニヒスベルク大聖堂は、市民約100人が避難したが、大半が爆撃により焼死した。

 イギリス空軍は、地下室に避難した市民を多く巻き込むため、爆撃に焼夷弾を用い、火災旋風を巻き起こす意図を持っていた、と言われる。

 この空襲の結果、家を失い市郊外にある緊急避難所に収容された市民20万人、死者5000人以上を数えた。

 収容された犠牲者は市内の共同墓地に葬られたが、この空襲により古都ケーニヒスベルクは大打撃を受けた。

 イギリスの戦略爆撃司令部は、市の住宅の41パーセントが修復不能な破壊を受け、産業力の20パーセントが失われたとの報告を上げている。



『街に空襲があった。1944年の夏の日だ。

 イギリスの爆撃機が、バルト海の向こう、ドイツ占領下のデンマークの方角からやってきて、ケーニヒスベルクの夜空を飛び交った。

 爆裂する炎と音。僕らは死ぬまでそれを忘れないだろう。

 そして、僕はあの子にさよならを告げた』

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