第69話 ようこそ我が家へ

「あらあら、この子があんたが言っていたホテルのアイドルの? しっかりした顔をしているわねえ」


 自転車の両側のハンドルと背中、そして後ろに載せたニコラスの膝の上にも買い出しの荷物を積んだ僕は、漕ぎ出して若干後悔した。

 ハンドルをとられ、ふらふらとした危険な運転をしながら運河を越え、旧市街の城門をくぐり、いくつもの橋を渡って実家のアパートに着いた。

 とりあえず盗まれる心配のある荷物を抱え、僕らは階段を駆け上った。

 ややきしんだドアを開け僕らを出迎えてくれた母親は、少々戸惑ったように動きを止めた。もっと小さな男の子を想像していたらしい。

 僕はニコラスを連れて行こうと思いつき、手紙で両親に伝えたのだが(もちろんユダヤ人という事は隠している) 僕の文章でごく幼い子供を想像したのか、母親と後ろから姿を見せた父親は、まぎれもなく膝をついて屈み彼を抱きしめようとしていた。

 だが、彼らの目の前、僕の横に立っていたのは大人びた思慮深げな顔をして、黒い巻き毛をとかしつけ、靴を光らせよそ行きの恰好をした、子供と少年の中間のような「彼」だった。


「こんにちは。お招きいただき光栄です。せっかくのご家族の水入らずを邪魔するようで恐縮ですが、短い間お世話になります」


 淀みなく挨拶をすると、ニコラスは深々と一礼した。

 日夜自分の正体を偽り、天敵であるナチの兵士たちに交わって仕事についているだけあって、こうした『自己演出』は驚くほどうまくなった。

 父も母もあっけにとられ口をぽかんと開けていた。

 母はそれでも彼の薄い体をぎゅうっと抱きしめ、微笑んだ。


「いいのよ。ゲアハルトに年の離れた弟がいたら、ちょうどこんな感じなのかもね。さあ入って入って。ケーキとコーヒー……貴方にはミルクを用意してあるのよ」


 父はひとこと


「ようこそ我が家へ。ニコラスくん」


 と言って、少年の手を取り固い握手をした。


 古いアパートの階段は相変わらず急だ。

 年とって膝が痛いのよという母と、背中が曲ってきた父は、一日に何回もこの階段をゆっくり上り、また降りてくるのだろう。


「おばさん、おじさん。市場で卵売りが出ていたから、僕買って来たんだよ。あと朝摘みたてだよって言うベリーも」


 ニコラスは先ほどと一転、年相応の口調で叫ぶと、中庭の大きなクスノキに繋いだ自転車と、アパートの部屋を往復して、持ってきた荷物を運んだ。

 小さな子なのにと心配顔の両親をよそに、毎日そうして働いている彼は重い荷物を運びあげるのに慣れている。

 食品、ナチの御用商人から回してもらった布、衣類、糸や針、洗剤などの日用品を運び上げ、手と顔を洗って改めて僕らはテーブルに着いた。

 やや緊張した「お茶会」の時間を過ごすと、彼はお茶器を洗うのを手伝うと言い出した。

 これは母が断った。


「ごめんなさいね。ありがたいけどこれはおばさんが洗うわ。そんなに高価でも値打ちのある物でもないけれど、この家のお祖母さんのそのまた昔から、代々伝えられてきたものだから、自分で洗いたいのよ」


 父が、黙ってしまったニコラスを励ますように、明るく言った。


「それより二人とも、湯を沸かして体を洗った方が良いぞ。このところ空気が悪いし、自転車なんかで来たから、頭から足の先まで埃っぽくなっただろう」


 ナチの奴らが大手を振って歩くようになって、なおさらな。

 父は口のはしをゆがめて付け加えた。


「そんなにナチを目の敵にすることもないじゃない。現にゲアハルトのホテルだって彼らのお世話になっているんだし」


 母はのんきに声を上げ、水を汲んで大鍋で沸かし始めた。

 風呂桶代わりの大きな木のたらいを納戸から引っぱりだすと、ごしごしと洗い、洗濯場の床に置き、湧いた湯と汲み上げ水を交互に入れ、風呂の準備をしている。


「僕そんなに汚れていないよ。行水なんてしなくていいよ」


 ニコラスは口をゆがめて反論するが、母は笑って受け付けない。


「そうよ。男ってなんでこうもお風呂が嫌いなんだろうね。ゲアハルトもそうだったわ。子供の頃なんて特に風呂なんか嫌だって逃げ回って、学校の先生に不潔だって叱られた。子供ってみんなそうよ」


 母は知らない。出自を偽っているユダヤ人のニコラスが、人前で裸になれない理由を。

 彼の民族は子供のうちから男性期の坂の皮を切る、割礼を施す。

 そのため、ユダヤ人の子供かそれ以外かの重要な目安とされている。女の子はこうした性器の加工はないが、男の子にはあるのだ。

 だからニコラスは、仕事の後の清拭も、トイレでの小便も、けして人と一緒には行かない。

 ホテルの寮ではなく社有船に寝泊まりしているのもそのためだ。

 だが両親は善意で風呂を勧め、はては自分がこの男の子の体を洗ってやりたい勢いだ。


「そうだニコラス、僕と入ろう。男同士でゆっくりと、職場の愚痴でも上司の悪口でも何でも聞こうじゃないか」


 僕が小さくウインクしてことさら大声を出すと、ニコラスはホッとして頷いた。


「やだこの子ってば、まだ小さいのに大人みたいね」


 そう。この笑顔の下に戸惑ったような冷めた目をかくした少年は、ドイツ本国ではいっぱしの活動家に足るような経験を、もう充分に味わってきたのだ。

 僕らは並んで上着を脱ぎ、シャツを脱いで衣装かけにかけながら、短く目くばせをした。


 きれいさっぱりとお互いの頭の先から足の先まで洗いあい(僕も子供のようにはしゃいでしまった)、リンゴンベリーのジャムを添えたミートボールとマッシュポテトの夕飯を食べ、僕らはベッドに入った。

 久し振りの自分の部屋は落ち着く。

 壁に貼ったベルリンの地図や舞台写真の額、机の上に詰まれた、今はもう全く使わない楽譜の数々。それらが僕を数年前に誘う。

 あの頃はなぜ何も心配せず夢中で日々を過ごしていたのだろう。危機なんてすぐそこまで来ていたのに。

 自分たちこそ彼らの誘導する『危機』の波の片鱗に漂っていたのに。


「これはどこの町?」


 ニコラスが尋ねる。


「これはドイツ本国の、ベルリンという首都だよ」

「立派で綺麗な街だね」


 ドイツ民族が作る街は、どこも似た感じになるのだが、ニコラスの目には一際堂々と端正に映ったのだろうか。


「立派だけど……」


 僕は言葉に詰まった。ツォー駅の近くのいくつもの多民族が集うカフェのにぎわい、酔った客を狙う物盗り、警察、アレクサンダー広場や下町の怪しげな飲み屋、夜の街に体を売る女たち、男たち。

 そして暴力、殴打、違う思想を持つ者への攻撃、取り締まり……

 綺麗で立派な街、そしてそこからすくい上げられなかった、神の掌から漏れてしまった人々の呻き。ゲシュタポやSAの隊員の怒号。

 ウンターデンリンデン通りの並木をそよがせる風の音は、そんな声を孕んでいつも呻っていた。


「自分が、自分として生きているところが、人にとって一番良い街なんだよ」

「じゃ僕には自分の街はないね」


 ニコラスは布団を被ってくるりと背を向けた。

 子供相手に悪い事を言ってしまった。ごめんよニコラス。

 僕が頭を撫でようとすると、静かな寝息が小さな方の向こうから聞こえてきた。

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