第62話 ある『ジャーナリスト』の死
「冗談じゃない。そんなの罠に決まっている。君は騙されているんだよ」
キムとオルガニストのフリードリヒ、オルガン助手のヘルマンは声を殺して叫んだ。
ダーレムの教会の、パイプオルガンの点検作業空間の中だ。
僕らのまわりにはパイプに空気を送る無数のふいご、林立する金属製のパイプ、そして鍵盤から直結する弁が囲むように配置されている。
教会の壁に作りつけられている巨大パイプオルガンは、こうした点検孔の中から破損したパイプや塞がった弁の取り換え作業をするのだ。
この教会では、その作業はフリードリヒとヘルマンに任されており、一般の信徒も見学者も、教会の壁を彩る壮麗なパイプ群の中がこんな機構になっているなど知らないだろう。
僕らの話し声も、協力者の誰かが調律名目で鍵盤を叩いていたら、外には全く聞こえない。
その代わり僕らの鼓膜は大打撃をこうむるが。(だから話し合い中突然鳴りだすオルガンの音は不審者に注意の合図であり、僕らは耳を押さえながら筆談に切り替える)
「だが、彼ハインツは信用できる男だと思うんだ。事実協力を申し出ている」
「ゲシュタポと親衛隊の、ど真ん中に居る人間だろう? 絶対に信じる事なんかできないよ」
三人は口角泡を飛ばして僕を非難する。
当たり前だ。
彼はラインハルト・ハイドリヒSS大将の弟で自分も親衛隊員。そしてジャーナリストという名目で、各地の全線で住民や抵抗勢力の虐殺を目にしても平然と写真を撮り、ドイツ大正義の記事にして本国に送り出版する男だ。
でも、僕はハインツ・ハイドリヒという男を信じた。いや信じようと思っていた。
音楽に対しても自身の仕事に対しても無邪気で快活で自信に満ち溢れていた男が、打ちのめされている。
これは絶好の機会ではないか。
こんな風に考える僕は、馬鹿みたいに甘いのだろうか。
「ああ。バカみたいと言うより馬鹿だし、君の直感はまわりの人間の命を奪う事になるかもしれない。
……で、具体的に、彼はどんな協力が出来るというんだ?」
キムはうんざりといった調子で会話を繋げてきたので正直助かった。
「ハインツは、自分の編集している軍の宣伝紙『パンツァー・ファウスト』用の印刷設備と印刷用紙を、極秘で我々の計画に貸し出せると言っている」
「要するに?」
フリードリヒがせっかちに尋ねてきた。
パイプの隙間から刺しこむ陽光が大分傾いている。
「つまり、軍の広報誌の印刷機を使って、偽の通行証や身分証明書を作る事が出来ると申し出て来た」
三人は黙り込んだ。
これは大変重大な提案だ。
彼の屋敷で聞いた時、僕も信じられなかったし、カマをかけられているのかと疑った。
話にのった所で連行され、拷問・処罰、国外追放が待っているのかもしれないと。
でも本当なら、願ってもない申し出だ。
「君、我々の活動と距離を置いた形で彼との接触と受け渡しが出来るか?」
「もしかぎつけられてフライスラーの人民法廷に立たされることになっても、僕たちの組織に塁が及ばないように」
フリードリヒとヘルマンは冷たい顔で言い放った。
差しこむ西日に照らされたパイプオルガンの中は、ムシムシと暑い。
大の男が四人額を突き合わせているのだから余計だ。
だが、話し合っている内容は心が冷えるものだ。
この瞬間から、僕は彼らから信用されなくなったのだ。
「ああ。日本の大使館を一時置き場にして、下宿の大家のハンナに協力を求めるさ」
「そういう事なら、僕もシンノと行動を共にするよ。君たちに追及が及ばないように細心の注意を払ってね」
話は着いた。
僕とキムは、彼らの組織と別行動をとり、大使館と僕の勤務先の通信社を中継地点にして、偽造書類のやりとりを輔することにした。
ハインツが彼の工場で、人目を盗んで印刷した書類は、彼の自宅にお招きをいただいた僕が楽器ケースの二重底に入れて持ち出し、職場に一旦置く。
そして取材にかこつけて、ウンターテンリンデン通りにある在ベルリン日本大使館に置くのだ。
大使館では現地の邦人を招いての演奏会や昼食会、茶話会が頻繁に行なわれていたから、人の出入りは多かったし、隠し場所にも困らない。
それに……大使館にはユダヤ人の女性が、出自を偽って勤めていた。
そしてそれは外務の出向職員も周知の事実だった。
彼ら彼女らの間接的な協力もあり、僕らはぽつりぽつりとだが、まとまった数の偽造書類を組織に渡すことが出来た。
この時ほど大島大使とナチの『良き関係』を感謝したことは無い。
偽造書類が組織に渡った後、どれほどの潜伏ユダヤ人たちがそれを使ったか、僕らは知らない。
だが少なからぬ数だというのはわかる。
兄の私物としてケース一杯の『遺物』を受け取ったハインツは、醜い憎しみに満ちた兄のメモや書類の下書きを、一晩中かけて暖炉で燃やしたという。
初夏のベルリンの夜、鍵もカーテンも閉め切った部屋で、兄ラインハルト暗殺の一報を受け前線から急いで戻った矢先。
彼は疲れと怒りと混乱の中、全ての書類を読み決心したのだ。
妻子に秘密警察の手が及ぶ事態になっても、直前まで尊敬していた総統と、兄と、祖国ドイツの体制に背こうと。
彼は軍人で前線にも行っていたから、当然人を殺したことはあるだろう。
なのになぜ『ユダヤ人をこの世から抹殺する』という兄や総統の意思に否と考えたのか。
僕には分からない。人を殺めるという点では一緒ではないのか。僕には理解できない。
でもキムは分かる気がするという。
大勢の中の『誰からも理解されないであろうマイノリティ』になった瞬間に、命の値は平等ではなくなると言うのだ。
そして「君にはわからないよ」とお決まりの言葉の繰り返し。
そんなことはない。僕らはいつかきっと分かり合える。そう思っている。
僕らとハインツ・ハイドリヒの協力関係は約2年間続いた。
幾人ものユダヤ人家族が、彼が印刷・手書きサインをした保護証明書と通行証を使い、デンマーク経由で占領地外に逃れた。
だがその活動は唐突に終わりを迎えた。
1944年秋、突然『パンツァー・ファウスト』発行元に軍の監査が入ったのだ。
11月、僕の下宿に郵便が届いた。
消印はプリンツ・アルブレヒト通りの郵便局。ハインツの執務室のあるゲシュタポ本部の建物の最寄り局だ。
胸騒ぎがして急いで開けると、彼らしくない乱れた字の、短い私信だった。
「我々の奏でる協奏曲は、そろそろ終わりを迎えたようだ。
第4楽章は短すぎたかもしれない。
正直僕もまだ弾いていたかった。
だが、曲は始まりがあれば終わりが来る。
誰もがアンコールを浴びるわけではない。
それでは、静かにコーダを演奏することにする。
君は別天地で、君の音を紡ぎ続けたまえ」
11月19日。
自分の活動が当局に察知されたと思ったハインツ・ハイドリヒ親衛隊大尉は、東プロイセンのケーニヒスブルクに向かう特別列車の中、拳銃で自らを撃ち抜き自殺を遂げた。
彼の死のきっかけとなった監査は、実は全く切迫したものではなかった。
当局から供給される印刷用紙の量と『パンツァー・ファウスト』誌の発行部数がかけ離れているので行われた、注意喚起の類だったのだ。
彼の部下で協力者の一人は、終戦まで刑務所にいたが、後に映画監督になったという。
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