第61話 置き土産・2

「葬儀前日の夜だ。僕はプリンツ・アルブレヒト通りの親衛隊の本部から、兄の私物を持ち帰った。ロッカーに私的な小物や衣服と共に仕舞われていた包みが一つ。

さすがの親衛隊保安要員もあらためられなかったらしい。

それで同じ内部の人間である僕に、処分を頼んだというわけだ」


 僕は嫌な予感がして、ハインツの顔を見つめた。

 短い巻き毛の生え際まで真っ青になった彼の顔は、見たこともないくらい歪んでいた。


「それは……ひょっとして、大将の妻子に渡せない性質のものとか……」


 ああ。図星だ。

 ハインツはそう言って息を深く吸い、一際小さな声で囁いた。


「兄の、親衛隊やこの国の政策に関する重要文書製作の過程……ユダヤ人に対する最終解決策の、メモ類だよ」


 残念ながらそう言われても、どんなに重大な事なのか実感できない。

 僕はナチスの中枢や、そこでの取り決めのことなど全く知らないのだ。


「お兄さんは親衛隊のお偉いさんだから、そういうメモがあっても不思議はないんじゃないか ? 」

「君はノンビリやだな」


 ハインツははっきり言うと失望したように顔を背けた。


「随分前から街の中からユダヤ人が姿を消しているだろう。彼らは父祖の地パレスチナに出国したとか、イギリスやアメリカに移住したとか言われているのを知っているか?

だが全部間違っている。確かに当初は移住させる計画方針で進めていた。

しかし受け入れ先の国との調整がうまくいかず、多くのユダヤ人が国内や占領地に留まらざるを得なかった。

最終解決策。それは収容所に送り込んで、強制的に重労働をさせて、いずれ確実に死なせるというものだ。

労働に耐えられそうもないものは入所時点で選別され、そのまま殺される。

男女の区別も子供も老人も関係ない。そういう解決策だ」


 僕は黙って聞き入った。

 ある程度高い地位にいるドイツ人はとても合理的だが、その反面『指示に従う事』をこちらの想像以上に優先する。

 だが、だからと言って、戦争捕虜でも工作員でもない『当該民族であること』を由来に、計画的に始末して行こうというのは無茶だ。

 そしてそれをいちいち律儀に決めるなんて。

 まったくもっておかしい。でも……


「でも君が『決まった事』に憤り怒るのと、お兄さんに対して怒るのとはまた別じゃないのか。その方針は、お偉方の会議で決めたことなんだろう?」

「さっき言った抹殺計画の大半は、兄ひとりが考えて立案したものだ。ほぼ全て」


 ハインツは青ざめた顔を今度は真赤にした。

 僕とは合わないんだ、性格が真逆なんだといいながら、彼は兄を好きだったのだ。


「だから許せない。

送られてきた兄の私物の箱の中には、ユダヤ民族に対する醜い感情、侮蔑、罵倒を書いたメモ書きが山ほどあった。

兄は個人的な嫌悪感を100%反映させたんだ。

そしてそ政策は、最高機関で密かに決められ、実行に移されている。

計画立案した兄は死んだが、歩き始めた政策は、もう取り返しがつかないんだ」


 ハインツはジャーナリストだ。

 フランスやベルギー、東方で、ナチスが実行しているユダヤ人の殺害を何度も目撃したという。

『アインザッツグルッペン』という主に現地採用されたり、他の部隊から懲罰的に移動させられた隊が、民族虐殺と言っていいレベルで大量殺りくを繰り広げているのだそうだ。

 取材でカメラを回しシャッターを切るハインツは、それらを何度も目撃しているという。

 しかし現場の暴走は、もしかしたら『総統直々の指示』で行われていると思っていた。

 計画立案、統括し実際に運営しているのが兄その人、そして彼の側近たちと言うのが耐えられなかったのだ。

 ハインツが兄の死後、人が変わったように塞ぎこみ閉じこもり、仕事を休むようになったのは、兄を失った衝撃だけではなかった。

 彼はまだ偏見の渦のふちから引き返せるくらい、健康な精神を残していた。


「僕は君と仲間たちがやっている活動について知っている。

その気になればいつでもゲシュタポを動かして、全員逮捕するくらいは出来る。

でも僕は、音楽を通じて、君がどんな人間か知っている。

だから、君たちを密告はしないよ」


 息が詰まりそうになった。全て知られていたのだ。

 僕がここでハインツの命を奪えば、仲間たちは助かるかもしれない。

 いやそんなことはできない。


「君たちの活動についての情報は、自分がつかんだ限り否定し嫌疑のルートは潰しておいた」


 そして言った。彼の顔は紅潮していた。


「君たちの活動を手伝わせてほしい」

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