第36話 テレジエンシュタットのモリタート・2
ドキュメンタリー映画のクライマックスは 『テレジーン弦楽合奏団』とテレジン合唱団による演奏会だ。
ゲットーの中のホールでは渾身の演奏が為され、選りすぐりの美声の混声合唱団が歌う。指揮棒を振るのはチェコのプラハ交響楽団で活躍していたというカレル・アンチェル。
観客席には立派な衣服を着た(与えられた)老若男女のユダヤ人たち。そして僕たち看守。彼らは撮影が終わった後の自分達の運命が分かっているのか、憂いに満ちた思索的な表情で、演奏に聞き入っている。
続いてはゲットー内の学校に通う(ここには図書館や絵画芸術、そうした教育施設も許されていた)子供たちによる児童オペラの演奏。
チェコ系ユダヤ人作曲家パヴェル・ハースの『ブルンジバール』
貧しい兄妹が病気の母の牛乳代を得るため、意地悪な手回しオルガン弾きのブルンジバールの邪魔にもめげず、動物たちや他の子供たちの協力を得て広場で歌い、お金を稼ぎ、ブルンジバールをとっちめるという他愛もないストーリーだ。
だが、お面をつけメイクをし歌い演じる子供たちは、その瞬間確かに、自分達の境遇を忘れていた。
満場の観客たちの視線、熱心に聞く耳、そして家族や大人たちの頷きや理解。そうしたものが子供たちに力を与えているのは間違いない。この光景を自分も体験したことがある。
ほんの数年前、ベルリンの街で、ビヤホールの地下で、大学のレッスン室で。
歌っていれば幸せだった。声を出し、楽譜に書かれた人物を生き、周りには仲間がいた。
危険な目にも遭ったし当局から睨まれもしたが、それでも仲間がいた。恩師』もいた。
今はもうどこかの収容所で死んでいるだろう。
あらゆるものは数年前に終わってしまった。
今はひたすら『現在』を生きるだけだ。
それ以外、自分に何が出来る ?
このカメラの前で、礼儀正しく、たまさか『偽りの』音楽を聞いて『生』の世界に居るユダヤ人たちも、彼らが街から消えても口をつぐみ、今まで通りの生活を続けようとしている市民も。
何が出来た ?
小悪人ブルンジバールをやっつけた勝利の凱歌が響く。
舞台上ではずらりと並んだ子供たちが、顔いっぱいに口を開いて、甲高い声を上げている。
カメラのケーブルを手繰り寄せ捌いている短髪の女が、ホールの隅にいた。夏の日差しを浴びて細い首筋が小麦色に焼けている。
僕は軍靴を鳴らして移動し、彼女の脇に立った。
ロープワークに余念がないミリヤナは、すぐそばに親衛隊員が立ったせいで、ぎくりとした。僕だと気づいてもその目から警戒の色は消えない。
「やあアシュバン先生。忙しそうだな」
「忙しいわよ。もしかしたらあんた達よりもね」
口調にトゲがあるのは学生時代からだ。全く可愛げがない。
「あんたは今も音楽をやっているの ?」
異動するカメラにつれて右に左に動くミリヤナの後を、僕は着いて回った。周囲からは、僕が彼女に目を付けたと思われたに違いない。
「なぜ ?」
「さっきから、子供たちのオペラの歌と一緒に、唇が動いていたわ。歌っていたでしょう」
それはそうだ。このブルンジバールと言う演目は、ここの児童合唱団の一番のレパートリーで、もう50回以上演奏されている。おかげですっかり覚えてしまった。忌々しい事だ。
でも、僕は答えた。
「まさか。あんな下等な音楽を歌いはしないよ」
「そうかしら。なかなか素敵な音楽だと思うわ。ゲットーの外に出て、世に問える舞台芸術よ」
親衛隊に口答えするなんて、全く彼女は命知らずだ。
「あんたがお話してた、あのゲロンのモリタートと同じくらいにね。少なくともあんたの歌うロドルフォの愛の歌よりは」
「いい加減黙れよ、お嬢さん」
僕はイライラしてきた。
「僕は音楽をやっているよ。現在進行形で、総統が我らに与えてくれた音楽をね」
「うそ。それは『本当の音楽』じゃないわ。私の目と耳は騙されないわよ」
ミリヤナは刺すような鋭い目で、じっと僕を見た。
「本当の ? じゃあ君は、これが『本当のドキュメンタリー映画』だと思うかい?」
僕は彼女を見返した。
ゲロンの映画作品 ? とんでもない。
奴はお飾りとしての監督に過ぎない。
SS国家保安本部のハンス・ギュンター、僕の上司である収容所長のカール・ラーム。彼らがこの映画の実質的な演出家だ。ラーム所長が撮影に立ち会わなかった際、ユダヤ人監督殿はその日の仔細な撮影報告書を提出しなければならないのだ。
ゲロンには、ほとんど何の権限もない。
8月16日から始まった撮影は9月の半ばまで、約一カ月にわたって行われた。
撮影と監督としての実作業は、途中からプラハの映像会社のカレル・ペチャニーと3人の助監督、多数のチェコのカメラクルーに引き継がれ、ゲロンの役割はますます希薄なものになっていた。
僕は彼にもう一度聞いてみたかった。
「お前は映画を監督できて満足かい? 」と。
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