第31話 テレジエンシュタットという『街』

 1942年。


 僕、エミール・シュナイダー親衛隊曹長は、ボヘミアの平地に建つ古ぼけた街に向かっていた。

 同じように古めかしいが煌びやかさが残る、古都プラハから車で少し行くだけで、周りの景色も空気もがらりと変わる。

 のどかさを絵にかいたような田園地帯ではあるが、すれ違う村人はみなよそよそしく、親衛隊の黒い制服を着た自分達から目をそらし、馬車や牛もその場に立ち止まって僕たちをやり過ごす。

 僕たちだってのんびりとボヘミア人の仏頂面を眺めているわけではない。そこかしこにパルチザンが潜んでいる懸念がある。子供でも老人でも清楚な少女でも、僕たちはけして油断してはならないのだ。

 麦畑やホップの畑(これが美味いピルスナービールの原料になる)の続く平原を装甲車で飛ばすと、ずらりと塀に囲まれた要塞か中世の牢獄のような城塞都市が見えてくる。それがテレジン……我々のドイツ語読みにすれば『テレジエンシュタット』の街だ。

 僕は情人のマリーとクリスマスを祝った後、新年早々プラハに移動した。そして着任後すぐ、この田舎臭い街『テレジエンシュタット』に移動命令を受けたのだ。


 テレジエンシュタットは、早い話がゲットーだ。

 我らドイツが保護し統治するヨーロッパの保護領ユダヤ人の中でも、長老格だったり、先の大戦でドイツ軍に所属し比較的高い階級にいたもの、作家や詩人、大学教授、博士、その家族など、奴らの中では『文化人』枠の者が移送されてくる所だ。

 文明人に擬態しているユダヤ人に、社会的な地位も何も今さらな話だが、連中はそうしたものがこの状況下でも存在すると信じている。

 我々ナチ党がユダヤ人の一部特権階級のために用意した街。自分達の生存が保障された、保護地。そう聞かされて来たに違いない。

 列車やトラックで運び込まれる老いも若きも、みな塀に囲まれた『大要塞』と称される街に追い立てられると、多少ほっとした顔をしていた。ネズミやノミやしらみ、不衛生で『奴らにふさわしい量の食料』しか与えられない現実に、ここはそんな地ではないと理解する羽目になるのだが。


 ボヘミアの平原の吹き付ける北風、雪と氷。飢えと寒さで、老人や体力のない者はバタバタと死んでいった。死体の回収や処理は収容者の中の協力者や、現地の職員たちの仕事だ。

 プラハに赴任したばかりの僕がこの地に回されたのは、僕が南ドイツとの国境の町に生まれ育ったオーストリア人だからだ。我々の局長、親衛隊大将ラインハルト・ハイドリヒの意向か、このテレジエンシュタットは全てオーストリア出身の親衛隊員の管轄だった。

 ただし施設全体から見れば僕らは少数で、実際の警備はチェコの現地警察があたる。僕の役目は収容者の監視と共に、この油断ならないボヘミアの職員たちをも見張る事だった。


 冬の間ユダヤ人たちは、バタバタと実によく死んだ。

 毎日モルダウ河畔に打ち寄せられる流木のように、白くカチカチになった死体が、『大要塞』の町の広場に積み上げられた。

 ユダヤ人職員の一隊が、わずかな食料や施し(奴らにとっては正当なサラリーと感じているか) と引き換えに、死体の山をトラックに積み込む。

 人間の形をとった氷柱は川の向こうの『小要塞』と呼ばれる監獄の手前の、塀の中に運び込まれ、そこの焼却炉で焼かれるのだ。

 テレジエンシュタットという街は、川を挟んでユダヤ人の街たる「大要塞」地域と、ゲシュタポの刑務所として運営される「小要塞」地域に分かれている。この監獄には前の大戦の引き金となった、オーストリア・ハンガリー皇太子夫妻の暗殺事件のテロリスト、ガブリロ・プリンツェプも収監され、病死している。そんな死と血と汚物の染みついた場所だ。

 焼かれた骨と灰は、ガリガリに凍った地面にユダヤ人たちが掘った穴(それも奴らの大事な仕事だ)に下ろされ、底に敷き詰められる。まるでアプフェルトルテ(リンゴのタルト)の生地に詰め込まれた、刻んだリンゴみたいだ。そこに砂糖ならぬ土と氷をかける。明日はカチカチに凍った雪交じりのその土の上に、新たな骨が放り込まれるのだろう。

 今は冬だからまだいい。春になったらさぞ、盛大な腐臭が漂うだろう。そうしたらこの土の上に、香りのよい花の咲く草か樹でも植えたいものだ。

 そう、爽やかな香りを漂わせる菩提樹、愛するベルリンの街に安らぎをもたらす菩提樹のような。


 ここに来て間もなく、囚人たちの移送が始まった。行く先は様々だ。

 バルト海沿岸のラトビアの都市リガ、我がドイツが東方戦線に進出して奪還したベラルーシの都市ミンスク、ポーランドのソビボル、マイダネク、トレブリンカ、ザモシチ。

 だがやがてそれらの都市への移送は徐々に減り、ずば抜けて大きくスロバキアに近い、ポーランド南部のアウシュヴィッツ市に作られた収容所へ一本化されていった。 我がドイツの誇る縦横無尽の鉄道網が、それを可能にしている。

 繰り返すが、僕の役目は次々と送りこまれてくるユダヤ人たちが、規定通りに『彼らの街』に入っていく、その監視だった。もちろん直接の警備はチェコ人の警察官が担う。その警官たちを監視するのも仕事のうちだ。


「エミール ! エミール・シュナイダーじゃないか !」


 テレジンに到着し扉が開けられた貨物用の車両から、小汚く臭い集団がわっと吐き出される。

 移送されるユダヤ人たちは、着られるだけの衣類を着こみ、密閉された立錐の余地もない程詰め込まれた車両に、何日も乗ってやってくる。持ち込める荷物は限られているし、便所は車両の中にバケツが一つ。その隠すものもない空缶で、男も女も用を足すのだが、詰め込み過ぎて身動きも取れない連中は、その場に立ったまま下着を下ろすことも出来ずに小便もクソもする。だからムシムシする車両での汗と相まって、この世のものとは思えぬ悪臭を放つのだ。

 そんな汗と汚物に塗れた集団が、テレジンの門に向かってのろのろ歩く。

 僕に向かって名をよんだのは、その汚らしい集団の中の奴だ。


「僕だよ。ベルリンの音大で同じ講義を受けていた、ベンジャミンだ」


 後生大事に楽器ケースを抱えた(多分ヴァイオリンだろう) 男が、もじゃもじゃの髪に薄汚れた顔でこちらを見ている。多分、どこかで同じ科目を受講していたのだろうが、僕はそいつを覚えていない。憶えていたとしても、だからどうだというのだろう。

 そいつは不用意に僕に近づいてきた。親衛隊の制服を着たこの僕に。

 たちまちチェコ人警官に殴り倒され、銃を向けられた。

 射殺一歩手前で、僕はその警官を止めた。


「急いで楽にしてやることはない。歩かせろ」


 ベンジャミンという男は鼻血を出し、絶望的な顔をして列に戻った。

 粛々と列を作ってテレジンに入っていくユダヤ人たちは、彼もその周りも、みな表情というものが抜け落ちている。だがどこか安堵したような顔の奴らも多い。ここが最終的な受け入れ先だと思っているのだろう。


 こうしたことは度々あった。音大生仲間、大学の先生、演奏家らがドイツの都市や保護領のあちこちから送られてきた。

 家族まるごと移送されてきたものも多い。

 詩人に医者、教授たち。ドイツ国内の『ユダヤ人指導者』層もいた。

 彼らは自分達を『特権的ユダヤ人』と認識していた。

 だから囚人ではなく『テレジンと言う街に移住してきた』人間と自らを見做している。

 実際は汚く古く不衛生で、飢餓が支配している他のゲットーと同じなのだが、それでもまだ他と比べれば緩やかなのだという。

 僕は他の収容所を知らないが、ここよりひどいところだとしたらそれは地獄そのものだ。


 テレジンに馴染んでいくごとに、収容者の『芸術家たち』は僕を見ても話しかけることはなくなった。

 実際に撃ち殺されたものもいるからだ。

 ちらと見ては目を伏せ、重い足どりで歩いてゆく。

 かつて彼らと同じ時間、空間を共有していたとは、もはや考えられなくなっていた。


 1942年5月。春の一番美しい季節。

 我らがベーレン・メーレン保護領の司令官のハイドリヒ親衛隊大将が、ごろつきたちから銃撃され、爆薬を投げられて命を絶たれた。

 この英雄の命に対してボヘミア人たちは、リディツェとレジャーキという、ゲリラを支援していた村を根絶やしにされることで、その報いを受けた。


 僕もいつ命を脅かされるかわからない。

 今日も昨日も、囚人刑務所になっているテレジン小要塞で、役に立たない奴らが射殺された。

 僕は毎日元気に生きている。

 それは、ユダヤ人音楽教師イサーク・ヅィンマンが書いた曲の題名通り「生きる価値のある命」だからだ。

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