第30話 クリスマスのプレゼント

「肩と乗馬ズボンの裾に埃が残っているよ」


 エミール・シュナイダーは棘のある声を上げた。

 痩せた女が、びくりと肩を震わせる。


「君は服のブラシかけも満足に出来ないのかい?」

「ごめんなさい。すぐやり直すわ」

「ボタンの糸が緩んでいるのも、直しておくように言ったよね」

「ごめんなさい。すぐ……」


 すぐに、すぐに、すぐに……! エミールは言葉尻を捉え、苦い思いで繰り返した。

 急いで、迅速に。

 従順な言葉だけは出てくるが、彼女マリーの家事は緩慢で、無駄な動きばかりが目につく。


「君がすぐやるのは、服を脱いで裸になることと、男を咥えこむことくらいなんだね」


 エミールは制服の手入れ具合をチェックし終わると、シャツを脱いだ。

 洗濯して、明日まで乾かして、しわひとつない状態にしなくてはならないのに、この恋人の家事能力の低さと言ったらなんだ。

 せっかくナチ党員、しかも親衛隊員になったのに、現在の自分にふさわしい女とはとても思えない。

 今もあわてた不用意なブラッシングで、黒い制服にもっと埃をつけてしまい、しかも床に落としてしまった。

 エミールはマリーのおどおどした手つきを見ながら舌打ちをした。

 なんでこんな下等な女と一緒にいるんだろう。

 肉体か?

 お前は、自分に対して罪の意識を抱いたまま、どんなに無茶なことをされても歯を食いしばって苦しそうに堪える、か細い女を攻め立てる事が楽しいのか?


「そうかもしれないな」


 エミールは長靴を脱いで履きなれた室内履きに替えた。

 靴の革も金具もピカピカにしておかないと。ベルトもボタンも徽章もだ。

 だが目の前の恋人は手際悪く、かえって状況をひどくしている。


「で、僕が口に入れるものは無いのかい? マダム」


 うろたえながらお湯を沸かし、コーヒーを入れてケーキを切る、機嫌をうかがうようなマリーの仕草を苦い思いで見つめた。

 マダムなんて呼びかけはしたが、彼女がそんな立場になれないのはとうに分かっている。

 親衛隊員はアーリア人、しかも北方系の女としか結婚できないのだ。

 祖母がマルセイユで生まれの南方系、父親がアルメニア系の移民のマリーとは、彼女がフランス人という以上に障壁が高いのだ。

 これが北方フランス人やフラマン人だったら話はまた別なのだが。金髪碧眼、白い肌、健康で素朴な心と労働に耐えうる頑健な肉体。それが親衛隊員にふさわしい『理想的なゲルマン娘』だから。


 エミールにとってマリーは、ゆがんだ愛憎と性欲をぶつけられる無報酬の家政婦に他ならない。

 彼は幾度となく、上官や同僚から、貧相なフランス女となんか別れろと忠告された。

 ゲルマン人としての子孫を作れる女、結婚という形にとらわれずに子種を欲しがる女、理想的なドイツの妻、そして母になれる女をいくらでもあてがってやる。

 そう勧められた。

 そのたびにエミールは曖昧な笑みを浮かべてはぐらかし、ずるずるとマリーとの同棲を続けていた。

 別れるつもりはない。いつでも手を伸ばしてスカートをめくり上げ、下着を下ろして突っ込む。前の穴と後ろの穴でさんざん欲望を放出すると、床に倒れた女を蹴って転がす。だが普段は穏やかに一緒にレコードを聞いたり、服を買うのに付き合ってやる。

 抱きたいときに抱き、罵りたいときに罵倒し、気が向いたら慰める。

 こんな便利な『穴』はない。愛してなんかいない。

 心の繋がりなんて求めていない。女が自分にそれを期待しているのは痛いほどわかる。マリーは自分にべったりだ。見離されたら自殺しかねないくらい頼り切っている。


「捨てないで、エミール。私が悪かったの」


 理由なく怒鳴られて、長時間直立不動で大声で罵られても、殴られて鼻血を出しても、髪をつかんで床に引き倒されても、服を裂かれて犯されても、彼女はエミールに寄りかかった。エミールもまた、上官がわざわざ家に来て他の女との交際を勧めても、別れなかった。

 ただ冷たく


『自分はただ一人の魂の女を探しているんです。それはこいつじゃありません』


 とマリーの面前で微笑んだ。

 彼女はただ青白い顔を俯けて、別の部屋の隅で膝を抱えている。『魂の女』とは誰のことなのか。それはエミール自身にもわからない。


 1941年待降節。

 エミール・シュナイダー国家保安本部曹長は、チェコの首都プラハに赴任の辞令を受けた。

『ユダヤ人移民中央局』への移動を命じられたのだ。

 この部署はチェコとモラビア地方を統治するベーメン・メーレン保護領を掌握する、国家保安本部長官ラインハルト・ハイドリヒの管轄下にあった。

 上官クラスは妻子と共に赴任するのだが、エミールは当然のように一人で行った。 マリーを伴う利点がないわけではないが、ベルリンで反社会勢力のユダヤ人たちと音楽活動をしてきた彼は、自分の身体と立場の保全を図るのに精いっぱいだ。


「マリー、外に食事に行かないかい? 」


 クリスマスの夜、室内をきちんと片付け、花瓶に花を飾りストーブの前にツリーを据え付けたマリーは、驚いた。外食に誘われるなんて何カ月ぶりだろう。

 彼がナチ党に入党し、SS内で地位を固めていくにつれ、彼女に渡す金は増えた。 一般の労働者には到底手に入らないような、上等の食料品店にも入る事が出来たし、どこかからの伝手で貴重なワインや塊のハム、高価な菓子類も時々ではあるが手に入れる事が出来た。

 今日、彼のために用意したクリスマスディナーもそうやって準備したものだ。

 大きめの調理用ストーブでは肉入りスープが湯気を立て、オーブンにはお腹に香草を詰めてしっとり焼き上げた、がちょうのロースト。ジャガイモと干し青豆と甘い人参にバターをまとわせた温野菜が保温されていたし、リンゴとキイチゴの砂糖煮を添えたカスタードクリームのデザートもある。

 でもそんな準備された食事より、久し振りに自分を気遣ってくれるエミールの態度がささくれた心に沁みる。マリーは一も二にもなく応じた。

 スープは後日の夕飯に回せば問題ないし、がちょうの肉も薄く切って、カツレツやサンドイッチの具に使い回せる。そうした食材の繰り回しもまた、模範的な家庭人たるゲルマン女性のたしなみだ。


「嬉しいわ。外で二人で食べるなんて久し振りでドキドキする」

「精一杯おめかしして出かけよう。仕事から帰って、おどおどこちらを恐れている君を目にするのは、正直うんざりだからね」

「ごめんなさい……」


 マリーのクローゼットを漁る手が止まった。

 今の住まい……学生時代に住んでいた、動物園駅近くの吠え声の聞こえるアパートからは考えられない瀟洒なアパートは、他所の土地へ『疎開』した金持ちのユダヤ人一家の住居である。家具も、食器も、リネン類も全て国家が『預かり』、党員やその家族に与えたものだ。

 マリーは彼がどんな仕事についているのか知らない。『一日中机に向かい、色んな予定を立てたり調整したり』する仕事なのだと聞き、ホッとしていた。

 数年前のオペラ仲間が痛めつけられ逮捕されたような、暴力的な恐ろしい「ナチの奴ら」とは違う。恋人は人に手を上げることなどない、紳士のナチ党員なのだ。時々昔の私のことを思い出して、逆上して殴りつけたり、ベッドや床で痛い目に遭わせる事はあるけど。


「これなんかどうかしら」


 夏のウンターデンリンデンに繁る菩提樹の葉と同じ、明るい緑色のスーツを取り出した。生地はしっかりとしたウール。これも『前の住民』のユダヤ人妻が残していったものだ。シルクのブラウスの上から着てみると、やや大きくてだぶつく。


「ちょっと体に合っていないね。君は随分痩せた。なんだかとても貧相だぞ」


 今のマリーは頬がこけ、小ぶりながら張りのあった胸も若干しぼんで見える。


「どこも悪いところはないのよ」

「もう体で稼ぐ必要もないしね。消耗して痩せてしまうほどには」


 エミールは皮肉を忘れなかった。


「じゃ健康なドイツ夫人にふさわしい、血肉になるようなご馳走を食べよう。君がお腹がいっぱいだと言っても、僕が認めるまでご馳走さまはさせないぞ」



「マリー、掌を見せて」


 口元をぬぐった白いナプキンを卓上に置き、エミールは手を差し出した。

 ベルリンでも目抜き通りの格式の高いレストラン。ここで食べるクリスマスのご馳走は旨いが、やや重く腹にたまる。

 卵黄のスープ、鯉のフライ、アヒルの照り焼きに各種果物のシロップ煮にケーキ。

 付け合わせの野菜も山盛りで、パンも次から次へとサーブされる。コーヒーまでたどり着くころには誇り高いSD隊員のエミールも食べ疲れしてしまう程だ。痩せっぽちで小食のマリーに至っては、ごめんなさいと謝りながら半分以上残している。


「やっぱりお国のフランスの料理の方が味は上か?」


 元から健啖な女ではないとわかっていても、ついつい意地悪な口調になってしまう。

 クリスマスの夜くらい優しい関係でいられないものか。

 昔みたいに。数年前に演じたオペラ「ラ・ボエーム」の恋人同士、ロドルフォとミミのように。

 おずおずと差し出されたマリーの手はごつごつと細く、骨ばっていた。指の爪の際も荒れているし、肌にハリが無い。老人の手のような恋人の指に、エミールは軽い衝撃を覚えた。

 オペラのヒロイン役の歌手を探していた頃。

 歌声に惹かれて窓から屋根を伝い部屋に跳び込んでいった頃。

 彼女は優しく柔らかく、弾むような肌をしていた。


「これはクリスマスのプレゼントだよ」


 上着のポケットから小さな箱を取り出すと、ふたを開け、金色のブローチを取り出した。精緻な淡いブルーの花が彫られている。


「君の瞳の色にそっくりだろう」


 エミールは椅子から立ち、驚きで口もきけずにいる恋人の傍に寄った。

 緑のスーツに青いブローチは、色合い的に映えないが、衿元のやや下、美しい鎖骨を隠す位置に留める。


「ああエミール、こんなに素敵なものを。高価でしょうに……いいの? 私なんかに」

「いいんだよ。どうぞ貰って。僕もやっと、こういうのを手に入れられるようになったんだから」


 エミールはどうやってそれを手に入れたか言わなかった。上官の口利きで、ポーランドのゲットーに『疎開』させられたユダヤ人の富豪の夫人のものを入手できたのだ。ユダヤ教の信者でもなく、何代も前にキリスト教に改宗した一族だったと言うが、そんの家族史はいささかも、この国でのユダヤ人の身の安全の担保にならない。

 涙を流し彼の胸にかじりつくマリーを抱きとめ、周りのテーブルから拍手を浴びながら、エミールは自分の役職と手際に満足していた。

 男の瞳がサディスティックに輝くのを視止めた女は、急に呼吸が早くなった。帰宅後ベッドでされることを予想したのだろう。


 今夜は『素敵な夜』になりそうだ。


 年が明けた1942年、エミールはチェコに旅立って行った。


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