第90話 朝稽古

 目覚めると、阿曽は泣いていた。

「あれ……?」

 ごしごしと袖で涙を拭き取ると、夢の中で躱した阿曽媛との会話が思い出される。

日伝ひのつたえ、か」

 父が阿曽に残した戦う力。その技を扱うための日月剣は、阿曽の傍に横たえられていた。

 剣を手に取り、目を閉じる。自分の中に芽生えた力の存在が、より強く感じられる気がする。

 瞼を開いて剣を置き、阿曽は自分が何処にいるのかと周りを見渡した。

 昨日、少彦那すくなひこなと本気で戦って認められたはずだ。そして今日、天恵の酒を受け取ることが出来ると言われていた。

 まだ日の光は部屋の中には届いておらず、夜明け前だと察せられた。周りからは二つ分の寝息が聞こえている。大きな一つは須佐男のものであり、静かなのは大蛇のものだ。

「……?」

 温羅がいるはずの寝床に、彼の姿はない。再び闇に慣れた目で見回すが、温羅の姿かたちを捉えることは出来なかった。

「温羅さん?」

 小声で呼びかけても、応えはない。

 阿曽は音をたてないように寝床を出ると、そっと部屋を抜け出した。

 まだ夜明けに至っていないのか、薄暗く仄かに火が灯るのみの神殿内は静かだ。誰にも出会うことなく、阿曽は神殿の外に出る。

「……あ」

 ヒュンヒュンと、何かが風を斬る音が耳朶を打った。阿曽が周りを見渡すと、白み始めた冷えた空気の中に温羅のすがたがある。

 温羅は一心に剣を振り、横、縦、斜めと縦横無尽に剣舞を披露する。白く吐き出される息遣いすらも舞の一部のように見え、阿曽は固唾を呑んだ。

「―――ふう。あれ、阿曽じゃないか」

 日が昇り始めた頃、温羅が阿曽に気付いた。わずかに肩が上下するものの乱れない息を吐き、温羅はにこりと微笑む。

「どうしたんだい、こんな朝早く」

「目が覚めて。温羅さんは?」

「わたしも夜中に目が覚めたんだ。そのまま眠ることも出来なくて、剣の腕が鈍らないように鍛錬していたんだよ」

 温羅の手には、彼に馴染んだ地速月剣ちはやつきのつるぎがある。それを鞘に収めるのを見詰めていた阿曽は、ふと夢で阿曽媛に出逢ったことを告げた。

「夢で、阿曽媛に?」

「はい。阿曽媛は、俺に日伝ひのつたえについて知っていることを話してくれました。そして、俺の父のことも」

「……阿曽の父上と言えば、日子ひるこさん?」

「俺が幼い頃、偶然媛の意識が目覚めて父と話をしたことがあるんだそうです。……媛の語ってくれた父は、優しくて温かい人でした」

 目を伏せて嬉しそうにする阿曽に、温羅は「よかったね」と微笑む。そして、媛が阿曽の中で消えたわけではないことに、寂しさと共に安堵を覚えるのだった。

 わずかな表情の変化から阿曽の心情を察した阿曽は、ぽんっと両手のひらを合わせた。

「そうだ、温羅さんにお願いがあります」

「どうしたんだい、改まって?」

 驚く温羅の前で、阿曽は日月剣ひつきのつるぎを抜く。そして、それを真正面に構えた。

「俺に、稽古つけて下さい。少彦那すくなひこなさんに認められたとはいえ、俺はまだ、皆さんに追いつけてない。だから――」

「良いよ、やろうか」

 懸命で真っ直ぐな阿曽の頼みを断る選択肢など存在しない。温羅は二つ返事で引き受けた。

 仕舞った剣を再び抜き、片手で構える。真剣同士の稽古は危険が伴うが、どちらもかすり傷程度なら負う気でいるのだ。

「行きます!」

「ああ、おいで!」

 ――キンッ

 金属音が響き、何度も何度も火花が散る。阿曽は引きそうになる自分を叱咤し、果敢に挑む。対する温羅も、そんな弟分に正面からぶつかった。

 白んだ空が薄い水色に染まる頃、須佐男と大蛇が二人を迎えるために外に出て来た。しかしそれに気付かず、阿曽と温羅の稽古は続く。

「お、やってんじゃん」

「楽しそうだな」

 肩で息をしながらも全く引かない阿曽と、まだ余裕のある顔で阿曽の剣をいなす温羅。二人の立ち合いを邪魔するのも野暮だったが、須佐男と大蛇は大きく手を振った。

「温羅、阿曽!」

「天照さんと少彦那さんが呼んでるよ」

 大声で呼ばれ、阿曽と温羅はようやく動きを止めた。

「……須佐男、さん。大蛇、さん」

「やあ二人共。おはよう」

 爽やかに汗を拭う温羅と対照的に、阿曽は気が張っていたのが急速に崩れた。

 ぺたんと尻もちをついた阿曽は、そこでようやく腕や足に幾つもの傷が走っていることに気が付いた。草の朝露に触れて、傷が痛む。

「痛っ」

「ははっ。それは織り込み済みだろう?」

「そうですけど。……くそっ、一撃も当てられなかった」

 傷だらけの阿曽に対し、温羅には傷がない。それを悔しく歯噛みする阿曽に、温羅は「えっ」という顔をした。

「本当にそう思ったのか?」

「そうでしょう? 温羅さんに傷は見当たりませんし、俺ももっと頑張らないとですね!」

 ぐっと両手の拳を握り締め、阿曽は笑う。

 力が抜けてしまった阿曽に手を貸した大蛇が、温羅と須佐男より先に神殿へと戻る。汚れてしまったため、阿曽を着替えさせないといけないからだ。

 二人を見送り、温羅は息をつく。そしてそっと右の二の腕に触れた。

「どうした?」

「ん? ああ、いや……」

 明瞭な返答を得られずに覗き込んだ須佐男は、ぎょっと目をむいた。

「お前……っ」

「はは。油断しなかったんだけどね、一撃入れられてたみたいだ」

 右腕を押さえた指の間から、細い血が流れ出る。じわりと袖を濡らしたのは、刃物で斬られた傷だった。

「大丈夫。少しすれば塞がるから」

 そう言って、温羅は神殿の傍を流れる小川の前に腰を下ろした。上半身の衣を脱ぎ、血で汚れた部分を洗い流す。そうしなければ、阿曽が無用な責任を感じると思ったからだ。

 温羅の引き締まった体を眺めながら、須佐男はその様子を見守る。

「温羅、阿曽は一撃も入れられなかったと悔やんでいなかったか?」

「ああ、そうだね。だけど、それはあの子の思い違いだよ」

 傷口も共に洗い、温羅は苦笑を浮かべる。須佐男が改めて温羅の体を見ると、他に傷はないように見える。

「他にはないようだな」

「そう、他は全て防いだ。だけど、避けられなかったんだよ」

 悔しいな。そう言いつつも、温羅の顔には喜色が浮かぶ。その心情を察し、須佐男も笑みを見せた。

「あいつ、成長してるんだな」

「そういうことだ。わたしたちも負けていられないよ」

 楽しげに言い合い、二人もまた神殿へと戻った。

 その直後の朝餉あさげの場で待っていたのは、老人姿の少彦那だ。

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