第76話 対犬飼
大蛇は水をまとわせた剣を引き、横一文字に一気に振り抜く。
「
放たれた水流は奔流となり、犬飼へとなだれ込む。最早水龍のような怒涛の勢いに、
――ドッ
巨石がぶつかって来たのかと勘違いしそうになるほどに、大蛇の攻撃は重い。前回まみえた時は、これほどの力を持つ戦士ではなかった。
犬飼は己の誤算に苦虫を噛み殺し、同時に嬉しさがこみ上げるのを感じた。
大蛇は、見た目だけならば犬飼の半分も生きてはいまい。しかし、調べてみればこの国の
水をまといし龍の神。
半信半疑であった犬飼だが、その疑いは、今払拭された。
「面白い」
犬飼は濡れた袖を軽く絞ると、結界を解いた。
同時に大蛇へ刃を向ける。腕を圧し折り、足を切り刻むために。本気で、人喰い鬼の元には行かせるわけにはいかないのだ。
(……気配が変わった?)
先程よりも、犬飼がまとう殺気が強い。確実にこちらを仕留めに来ている。
大蛇はとんっと地を蹴って犬飼の剣を躱した。連続で突き出されるそれに、反射神経だけで対応する。最早、無意識だった。
右に突き出されれば左へ、腹を狙われれば軽い動作で退いた。
更に今、頭上から落下してくる刃を己の剣で弾く。
しかし避け切ったと安堵したのも束の間、犬飼の蹴りが大蛇の胸を襲った。
「がっ」
大蛇は吹き飛ばされ、地面に叩きつけられる。誰かが自分の名を叫んだ気がしたが、それを気にしている余裕はない。胸の奥に痛みが生じ、大蛇は勢いよく咳き込んだ。
この隙を、犬飼が見逃すはずがない。
犬飼はうずくまる大蛇のもとへと瞬時に駆け寄ると、彼の腹に踵を落とした。
「――ッ」
息をするのも忘れるほどの激痛。しかもそれは、何度も何度も襲って来る。
(早く、何とかしないと)
大蛇は痛みに耐えながら、その時を窺った。一瞬でも、力が弱まるその時を。
「……神とはいえども、その程度か」
全く抵抗する気配のない大蛇に、犬飼は軽く失望していた。このまま押し続ければ、確実にこの地祇を殺すことが出来る。
ただの人相手であったなら、ここまで念入りに蹴りも入れることはない。大抵、剣で一突きすれば終わるのだから。
―――ガッ……ドス
犬飼の回し蹴りが大蛇の鳩尾に入り、大蛇が再び宙を舞う。その脱力した肢体と苦悶に歪む表情に、犬飼は大蛇がもう動くことはないと判断した。
グシャッと地に落ちる大蛇。それを目視し、犬飼は背を向けた。
見れば、彼らも壮絶な戦いをしているではないか。早く加勢せねば。犬飼はその場を去ろうと一歩踏み出した。
「……?」
その時、足元で水音がした。何かと見下ろせば、足の下に水たまりがある。先程まで、こんなものは存在しなかったではないか。
「―――! まさか」
「水刃舞斬!」
水たまりから水柱が起き上がった。逃げる間も与えられず、犬飼はその水流の中に囚われる。
「……っ」
息を止め、目の前に立った男を睨みつける犬飼。彼の前にいたのは、瀕死の重傷を負って動けないはずの大蛇だった。
「気分はどうだ? 苦しいだろう」
胸の奥から漏れるひゅーひゅーという頼りない音を無視し、大蛇は笑った。
大蛇とて、無傷ではない。三将による攻撃は自己治癒力を上回るのか、未だに全ての怪我を直すまでは至っていない。
鳩尾は血にまみれ、左腕は折れたのか自由に動かせない。また、右足は内出血と外傷を受けて引きずっている。これらを自力で治すのには、少しでも良いから時間が必要だった。
更に、八岐大蛇としての水を操る力を使うと、そちらに力が持って行かれてしまう。その為に自己治癒が遅れるが、今は犬飼を倒し切ることが先決だった。
「……き、さまっ」
――ごぼっ
こちらを燃えるような憎しみの瞳で見つめていた犬飼が、自分の首を押さえた。そろそろ限界なのだろう。
「ほら。……今楽にしてやる」
大蛇は右手に握り締めた
「……! ……ッ」
水柱の中で、犬飼が動いた。腰に佩いた剣を抜き、水流を斬って脱出しようというのだろう。彼ほどの力量があれば、それも可能か。
「―――させない!」
このまま、須佐男と温羅に頼る自分でいたくはない。大蛇は、自分が二人に比して劣っていることは自覚していた。いつ鍛錬をしても、負けるのは自分だったからだ。
須佐男も温羅も、今はそれぞれの敵と戦っている。ちらりと目だけを動かせば、須佐男が楽々森に一撃を与えた瞬間だった。
阿曽もどんどんと力をつけてきている。彼自身に自覚はないのだろうが、日月剣を使いこなせるようになる日は間近だ。阿曽にだって、負けたくはない。
翠色の光が強まる。光は増し、輝き出す。刃は、大蛇の翡翠色の瞳同様に眩しいほどの光を放った。
息を吸い込み、大蛇は叫んだ。
「
思い切り、剣を横一閃に振る。
水柱が斬れ、水が溢れ飛ぶ。滝のようなそれは、爆発するかのような音をたてて崩れ去った。
「はぁ、はぁ……」
肩で息をし、大蛇は水に濡れそぼった前髪をかき上げ、視界を確保した。辺りは水浸しとなり、徐々に地面に染み込んでいく。
その中心に、大きな水たまりがある。更にその中央に、仰向けで倒れた男の姿があった。
「……これで、終わりだろう? 犬飼」
「……ふん。まさか、お前に敗れる日が来ようとはな」
口惜しそうに、犬飼は唇を噛む。立ち上がる力すら残っていないのか、彼は手足を水たまりに投げ出していた。腹には横一文字の傷が走り、赤い血を流して水たまりを染め始めていた。
「……」
大蛇は犬飼に背を向け、阿曽の元へと向かおうとした。須佐男と温羅はそれぞれに敵と戦っているが、阿曽だけは戦場でたった一人途方に暮れているのだ。満身創痍とはいえ、傍にいないよりはましだろう。
ぱしゃん。大蛇がその場を離れようとした時、小さな水音が聞こえた。振り返ると、犬飼が力なく右腕を上げ、手のひらを額にあてている。そして、大蛇の視線に気付くと、くくっと弱く笑った。
「何が可笑しい?」
「……くくっ。お前たちは、知らぬのだろう? 人喰い鬼の正体を」
「人喰い鬼の正体だと?」
犬飼の言葉に、大蛇は目を見開いた。
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