第52話 幸せな日々

 表で阿曽媛が消えた後、阿曽は自分の前に彼女が現れてぎょっとした。そして、今いる世界が現実ではないのだと思い出すのだ。

「阿曽くん、ありがとう」

 そう言ってにこりと微笑んだのは、黒髪と琥珀色の瞳を持つ女人だった。先程まで体の表側に出て温羅の本来の力を取り戻させた、温羅の妻である。

「お蔭で、温羅さまの力を取り戻すことが出来ました」

「俺は、ただあなたに体を貸しただけですよ」

 何も出来ていない。そう自嘲する阿曽に、媛は首を横に振る。

「あなたの存在自体が、彼らを支えている。それが、何よりも確かなことです」

「……ッ」

 言葉を失う阿曽の頬を両手で挟み、媛は微笑む。

「あなたはわたしが前世であること以上に、困難を伴う天命を背負って生まれています。……それでも、きっと。乗り越えて掴み取れるはずです、未来を」

「未来」

 媛は儚げに微笑み、そっと唇を阿曽の額に触れさせた。仄かに甘い香りが漂う。

「!?」

 顔を真っ赤に染める阿曽に、媛は悪戯めいた笑みを見せた。

「わたしが口づけたのは、温羅さまとあなただけですわ」

「あっ、阿曽媛!?」

 混乱して慌てる阿曽を見てくすっと微笑み、姫は踵を返した。

「さよならです。……温羅さまのこと、頼みました」

「―――はい」

 温羅の名を口にした時、媛の言葉が揺れていた。その細く小さな肩が震える。それでも、媛は決して泣き顔は見せない。

 不意に、桜の花びらが舞った。真っ白で、曇りもない花の欠片たち。

 それらの先に消える阿曽媛に、阿曽は思わず手を伸ばした。




「――――え?」

 阿曽が気付くと、見知らぬ場所にいた。

 何処かの村里だろうか。子どもたちが追いかけっこをし、大人たちが畑仕事に精を出している。何処にでもありそうなうららかな日常。

(何処だ? ここは)

「あの、すみません!」

「……でね、うちの人ったら」

 阿曽は近くに居た村人と思われる女人に話しかけた。しかし彼女は阿曽に気付いていないのか、彼の問いには答えない。

 それを何度か繰り返した。大人も子どもも、老人も、誰一人として阿曽の存在を認識していない。

「どうなってるんだ?」

 阿曽が現状を理解出来ずに首を捻ったのも束の間、突然若い男が焦った様子で走り込んで来る。

「みんな、早く家に戻れ!が来る!」

 男の言葉を聞いた瞬間、村人たちは脱兎のごとく行動した。誰もが駆け出して室内に入り、息を潜めたのだ。

 置いてきぼりをくらった阿曽は、不意に背後に生じた邪悪な気配に振り返った。

「あいつ!」

 そこにいたのは、五十狭斧彦いさせりひこだった。更に二人の鬼と共にいて、村を見回している。手には棍棒らしき得物を持っている。

 しかし、阿曽が知る彼よりも若く見える。

「どうしてあいつがここに? 温羅さんが倒したはずじゃ……」

「おいおいおい! だーれもいやしねぇじゃねえか! これじゃ、獲物も何もあったもんじゃねえぜ」

「そういきり立つなよ、茨木いばらき。さっさと村長むらおさんとこに行こうぜ」

 やはり、阿曽の言葉は聞こえていない。五十狭斧彦たちは阿曽に気付かず、真っ直ぐ進んで来る。

(ぶつかるっ)

 大柄な鬼三人にぶつかられれば命はない。そう思い身をすくませる阿曽だったが、鬼たちは彼の体をすり抜けた。

「……俺は、ってことか」

 自分は記憶を見ている。阿曽は唐突に理解した。

 若い五十狭斧彦は、ここが過去だから若いのだ。村人が阿曽に気付かないのは、阿曽がここに存在しているわけではないからだ。

 阿曽が自分の立ち位置を理解した瞬間、場面が切り替わった。


「帰れ。お前たちにやるものなどない」

 何処かの邸だ。他の家よりも立派な造りをしていることから、ここが村長の家だとわかる。

 村長は、思いの外若い。おそらく、先代から立場を継いで間もないのだろう。鬼に対する恐怖を胸の奥に押し込めながら、五十狭斧彦たちと対峙していた。

「俺たちが守ってやってるから、この村は外から襲われないし、暮らせている。それを知っていながら、俺たちに対する態度はそんなもんか?」

「……っ。あなたがた鬼との契約は、先々代が結んだもの。百年という契りを果してくれたことには感謝しているが、既に効力は切れているんだ」

 だから貢物みつぎものなどないと、村長は言い張る。それを耳をほじりながら聞くとはなしに聞いていた五十狭斧彦は、ふっと何かを思い出して「じゃあさ」と身を乗り出した。

「あんたのとこの媛、寄こしなよ。美しいって評判らしいじゃねぇか。その媛をくれれば、この村にはもう降りて来んよ」

「阿曽媛を渡すことなど、出来るものか!」

「……ならば、破談だな」

 五十狭斧彦は控えていた二人の鬼に目配せする。すると二人は無造作に立ち上がり、庭に建っていた倉の戸をこじ開けた。その中には、米や穀物、その他村の宝とも言えるものが入っている。

「今日のところは、この中から一部もらい受けるだけにしてやろう。……ああ、それだけじゃ足らんな。村の若い娘を数人貰おう」

「何を言って―――っ」

「五月蠅い。人無勢が指図すんな。……全く、温羅は何故肩入れするんだ」

 五十狭斧彦は村長を拳で吹っ飛ばし、仲間と共に去って行った。


 村の傍にある山には、水が湧く小さな池がある。人里から近いこともあり、鬼の目を盗んで村人たちは綺麗な水を汲みに来たいと思っている。だが、何人たりともここ何年も汲みに行けてなどいなかった。

「……阿曽媛、こんなところにいたら五十狭斧彦たちに殺されかねないぞ」

「平気。だって、あなたが守ってくれるでしょう? 温羅さま」

 無邪気な笑みを浮かべるのは、阿曽媛だ。彼女の言葉に苦笑いを浮かべるのは、温羅である。

 二人は秘密の逢瀬のため、数日に一度だけこの場所を使っていた。

 二人が出会ったのは、丁度三年前。寒い冬の夜、病弱な母のために薬草を採りに阿曽媛が山に入ったことがきっかけだった。

「……大丈夫、か?」

 寒さに震えながら薬草を探す阿曽媛が、足を滑らせ冷たい川に落ちそうになったところを温羅が助けた。それが、全ての始まりだった。

 それから二人は、誰にも知られることなく逢瀬を重ねた。笑みを交わし、言葉を交わし、徐々に惹かれていったのは仕方のないことだったのかもしれない。

 日が陰り、一日の終わりを鴉が告げる。もうすぐ夜のとばりが下りてしまう。

「阿曽媛、そろそろ時間だ」

「……帰りたくないって言ったら、あなたはわたしをさらってくれますか?」

「阿曽、媛」

 切なげに呟かれる媛の言葉に、温羅の喉が詰まる。温羅が硬直してしまったことに気付き、阿曽媛は冗談めかして手を振った。踵を返し、一歩村へと踏み出そうとする。

「ごめんなさい、出過ぎたことを言いました。……また、逢いま」

「好きだ」

 時間が止まる。阿曽媛は自分が背中から抱き締められているのだと、ゆっくりと理解した。頬が紅潮し、体の熱が上がる。

「あ、う、温羅さまっ!?」

「ごめん、阿曽媛。きみが好きだ。始祖の血を引く鬼のわたしが人である媛に惹かれてはいけない、そう知っているのに」

「…………いえ、わたしもその禁忌を破っています」

「阿曽媛?」

 媛の言う意味がわからず、温羅は腕の力を緩めた。その時、阿曽媛が振り返る。

「―――!」

「……お慕いしているのは、わたしの方です」

 か細い声で、温羅から唇を離した阿曽媛が言った。彼女の顔は真っ赤に染まっていたが、温羅も同じく火の燃えるような熱を持っていたことは言うまでもない。


 当然、鬼たちは反対し、村人たちも異を唱えるものが多かった。しかし阿曽媛の決意は固く、村を出た。温羅も鬼の王から退くことで決した。

「後悔、していませんか?」

 二人きりの初めての夜、阿曽媛が温羅に尋ねた。その問いに首を横に振って応じ、温羅は阿曽媛を抱き寄せる。

「するわけがない。……わたしは、媛を笑顔に出来ればそれでいい」

「……はい」


 この頃には、温羅も阿曽媛も考えもしなかった。

 かつての部下であった五十狭斧彦が温羅を封じ、阿曽媛がその生涯をかけてその封を守り続けることになるとは。


 二人はただ、鬼や人という立場を超えただけなのだ。

 温羅の腕の中で、阿曽媛は幸せそうに微笑んでいた。

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