第44話 霊峰の神

 月読が教えてくれたのは、高天原の中でも奥地にある霊峰の一つだった。

 神殿から丸一日かけてたどり着いた地は水の恵みに溢れ、大河流れるその両脇には美しい花々が咲き乱れていた。

 須佐男によれば、高天原は中つ国とは異なって四季がなく、常に温かな空気に満たされているという。とはいえ夜の時間は寒く、雪が降ることもあるとか。

 麓から見上げると、その頂上は雲に隠れて見ることは出来ない。その高さに圧倒される阿曽だったが、臆することなく入山する須佐男たちの後を急いで追った。

 山の中は色と音に溢れている。緑や赤、白、紫。そして何処からか、獣や鳥たちの歌声も聞こえてくる。

「何処かに獣がいるみたいですね」

「怖いかい? 阿曽」

「はい。……住んでいた森の獣は皆顔馴染みでしたが、ここは全く知らない声ばかりなので」

「大丈夫だよ」

 くすくすと笑いながら、温羅は自分の前を行く須佐男を指差した。

「高天原は全て、天照さんたちの統べる国だ。その弟を襲おうなんて馬鹿なことを考える獣なんて、ここにはいないからね」

「……なるほど」

 気配を探れば、確かに何処か怯えのようなものを感じる。本当に神さまなんだな、と阿曽は改めて須佐男の背中を見た。

 ざくざくと枯葉を踏み締め、時折滑って転びそうになる。水の恵み深いこの地では、常に何処かから水が湧き出しているのだ。

「うわっ」

「おっと。気を付けてよ、阿曽」

「ご、ごめんなさい、大蛇さん」

 登山の順番は、須佐男、温羅、阿曽、大蛇の順だ。

 湿った草に足を取られた阿曽が体勢を崩した時、すぐ後ろを歩いていた大蛇が腕を掴んで支えてくれた。慌てて足を踏み締める阿曽を、大蛇は「急がなくていいよ」と笑って制した。

「急げば、また足をすくわれる。ちょっと落ち着いて周りを見て、自分が何処にいるのか把握してからでも遅くはないよ」

「わかりました」

 大蛇の言う通りに、ゆっくりと足元を確かめながら踏み締める。すると地に足が付き、次の一歩が不安定ではなくなった。

「お。ちゃんと山を感じているね、阿曽」

「山を感じる?」

 確かな足取りで歩き始めた阿曽に、一足先に行っていた温羅が言う。

「高天原において、山は一つの命だ。それ自体に命があり、鼓動している。山は山津見やまつみであり、海は綿津見わたつみが統べる。それらの許しがなければ、本当の山や海の世界には足を踏み入れることは出来ないんだ」

「お前は今、この山に認められたってことだよ。これで、奥地へも進める」

 温羅の言葉を補足した須佐男が、にやっと笑った。

 阿曽には、彼らの言葉の半分も理解出来なかった。しかしそれらが真であるというのは、後に思い知ることになる。

 しばらく道なき道を木の根や蔓に気を付けながら進んでいた一行だったが、ふと阿曽は生き物が現れないことを不思議に思った。

「あの」

「どうした、阿曽?」

 一番前を歩く須佐男が、くるりと振り返った。既に夕刻に差し掛かっているのだが、彼の顔には疲労の色はない。阿曽は半刻前に一度水を飲むために立ち止まったことを思い出しつつ、周りを見た。

「何か、獣の気配を全く感じなくなったんですけど……」

「ああ。ここがもう、『本来の山』の中だからだろう」

「……ほんらいのやま?」

 さも当然のように言う須佐男に対し、阿曽の頭の上には疑問符が飛ぶ。その疑問を解消してやろうと温羅が声をかけようとした時、何処からともなく老成した男の声がした。

「きみたちは境界を越えたのだ。その境を越えることが出来れば、山津見が住まう本来の山の姿を見て、足を踏み入れることが出来るのだよ」

「誰?」

 阿曽が尋ねると、すぐ傍にある湧水から声が聞こえた。

「ここじゃ。とはいえ、きみたちにわたしの姿が見えるか疑問ではあるがね」

 どうやら湧水は川の源であるようだ。ちょろちょろと流れる水が、麓へ向かって流れを作っている。

 湧水の傍には大木が立ち、その根が地上に出て蛇行している。根の盛り上がった部分、丁度自分の腰の位置に、阿曽は目を止めた。

「えっ」

「どうした、阿曽……え?」

 阿曽の傍に来た温羅も目を丸くする。須佐男と大蛇も硬直する二人を不思議そうに見守っていたが、彼らの目も根に吸い寄せられ、固まった。

「なんじゃ? 私に何かついていているかい?」

「……小さい」

「うん、小さいね」

「ちっさい」

「小さ子?」

 阿曽たちが口々に言うと、その人(?)は眉をひそめて怒声を上げた。

「小さい言うな! 私には少彦那すくなひこなという名があるのだぞ」

「あなたが、少彦那!」

 驚き声を上げた阿曽に、少彦那は腰に手をあて頷いてみせた。

 見た目は老年の男の人だが、声は若々しい。若い頃は黒々としていたであろう髪は灰色となり、頭の後ろで束ねるほど長い。更に服装はと言えば、着古した貫頭衣かんとういに藍色の帯を締め、薄汚れたはかま穿いた姿だ。

 その手には元は枝であろう杖を持ち、力の強い瞳は浅葱色だ。

 少彦那はその大きさ五寸(約十五センチ)ほどしかなく、阿曽の手のひらにさえ収まってしまいそうだ。

「おお、私が少彦那じゃ。……そう言うあんた方はどなたかね?」

 この山は山津見が認めた者しか出入り出来ないはず。そう言って首を傾げる少彦那に、四人は自己紹介をした。

「オレは須佐男。天照と月読の弟だ」

「ぼくは八岐大蛇と申します。大蛇と呼んでください」

「わたしは温羅。こちらは阿曽と言います。わたしたちは、あなたに頼みたいことがあってこの山に来ました」

 温羅に紹介された阿曽は、実はと少彦那に話しかけた。

「俺たちは、天恵の酒を探しているんです」

「……天恵の酒を?」

 ぴくり、と少彦那が反応を示す。彼に頷いてみせた阿曽は、ぺこりと頭を下げた。

「あなたが天恵の酒について知っていると知って、会いに来たんです。もしも何処にあるかご存知なら、教えてもらえませんか?」


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