天恵の酒~神話世界の旅路の果てに~
長月そら葉
はじまりの章
第1話 出逢い
ごめんなさい。
誰かが、俺に謝罪する。
ごめんなさい。
何度も、何度も。
それは夢だとわかっていた。何故なら、いつも見る夢だから。
――ごめんなさい、
目覚めても、傍には誰もいないのだから。
ドガガガガッ
「待てッ、逃げるなッ」
「無茶言うな!」
普段ならば静寂に包まれた森に、男女の声がこだまする。
一人は少女。一つに縛った髪を振り乱し、真っ直ぐに獲物を狙い駆ける。その手には、美しい彼女に不釣り合いなほど武骨な
もう一人は、逃げる少年。黒い短髪は、汗で本来持つ柔らかさを失っている。彼の双眸は血のように赤い。疾走する足は、鹿のように軽やかだ。それでも、限界は近かった。
「うわっ」
木の根につまずき、少年が体勢を崩す。そのまま地面に膝をつくと、すぐ後ろに全く呼吸の乱れない少女が立つ。無感情な瞳は、少女を睨みつける少年の顔を映していた。
「鬼は、殺す。殺さなければ、いけない」
「ま、待てよ。俺は、鬼なんかじゃ……」
「――ッ。問答無用」
「!?」
一瞬の瞳の揺れの後、少女は
キンッ
「あっぶな」
「え……?」
少年はゆっくりと目を開けた。自分の首が落ちていないことが不思議で、響き聞こえた金属音を不審に思い、そっと顔を上げる。
「大丈夫かい?」
少女の剣を自分の剣で受け止めていたのは、見知らぬ青年だった。ただ、瞳は自分と同じく真っ赤に染まっている。そして衣服は少年の粗末な麻の着物ではなく、美しい
「きみ?」
「ああ。だ、大丈夫です」
ありがとう。そう言うと、青年は目を細めた。彼は少年に隠れているよう促すと、後方に退いていた少女に向き合う。
少女は青年の登場に驚いた様子も見せず、真っ直ぐに目で射抜いていた。
「お前、
「やってみなよ、桃太郎」
温羅と呼ばれた青年は、向かって来た桃太郎の切っ先を軽く避ける。そして、彼女の背中に拳を叩き込んだ。
「――かはっ」
桃太郎はそのままどうっと倒れ伏し、ピクリとも動かなくなった。木陰でそれを見ていた少年は、恐る恐る這い出す。
「殺し、たんですか?」
「まさか、殺しはしないよ。気を失ってもらっただけだ」
温羅は微笑み、少年に手を貸した。腰が抜けてしまった少年を助け起こす。
「きみ、名前は?」
「……阿曽」
「あそ、か。では阿曽、行こうか」
「行く? 何処かへ俺を連れて行くんですか?」
不安げに首を傾げる阿曽に、温羅は微笑んだ。
「ああ。きみを助けてくれる人たちのところへね」
温羅は阿曽を背負うと、人間を超えたスピードで森を抜けんと疾走した。
あまりのスピードに、阿曽はしっかりと目を閉じて耐えていた。ようやく体に感じる風が弱まった頃、温羅が「もういいよ」と声をかけてきた。
阿曽が目を開けると、そこはもう、彼の知る森ではなかった。近くの村でもない。温羅の背中から降り、阿曽は呆然と呟いた。
「ここは、何処?」
永遠と思えるほど広がる草地に、巨木が一本生えている。その青々とした葉は、爽やかな風に揺れ、気持ちよさそうだ。
現実離れした風景に絶句していた阿曽を、温羅が手招く。
それに応じて巨木へ向かって歩いていくと、その木陰にいた二人の人物と目が合った。二人とも液体がたっぷりと入った器を持っている。
「おう、温羅。こいつどうしたんだ?」
「珍しいね。温羅が誰かをここに連れてくるなんて」
「
「……ほお」
じろじろと阿曽を見つめた須佐男と呼ばれた青年は、寝ぐせのように跳ねた髪が印象的だ。一目で喧嘩っ早そうだなあとわかる容貌をしている。液体を飲んで顔を赤くしているところから、それが酒だとわかる。
「須佐男、そんなに見たら怖がられるだろう? 悪いね、少年」
そう言って須佐男をいなしたのは、八岐大蛇と呼ばれた青年だ。青年と呼ぶには少し幼く見えるが、涼しい顔をして酒を飲んでいることから、須佐男や温羅と同年代なのだろう。
どうすべきかわからずにおろおろと突っ立っていた阿曽は、温羅に促されて3人の円に加わった。
「俺は、阿曽といいます。温羅さんに助けてもらって、ここに来ました」
「阿曽、か。オレは須佐男。こっちは八岐大蛇。よろしくな」
「阿曽、ぼくのことは
「あ、はい。須佐男さん、大蛇さん」
ぺこりと阿曽が頭を下げると、そんなに畏まらなくていい、と須佐男が彼の頭を乱暴に撫でた。
「なっ。やめてください!」
「なっはは! いいじゃねえか。同志なんだからよ」
「……同志?」
どういうことかと尋ねれば、苦笑気味の温羅が説明を買って出た。須佐男の乱暴な手は、大蛇がつかんで止めている。
「何も言わずにここへ連れて来て悪かったね。あそこにいれば、桃太郎が再び目覚めた時に厄介だったから」
「いえ……。でも今なら、説明してもらえるんですよね?」
「ああ。きみは、
「しそ?」
「そう。始祖は、鬼とも呼ばれる。人間とは異なる種族だ。
「赤……え?」
阿曽は自分の瞳の色を思い出す。赤ではないか? では自分は。
「その話は後で。今は、おれの話を聞いてくれるかな?」
「あ、はい」
大人しく思考を中断させた阿曽は、温羅の言葉に耳を傾ける。
「そしてさっきおれたちが出会った少女は、桃太郎。彼女は黄泉の国というこの世の裏側の世界から遣わされ、鬼を殺すことを目的に動いている。全てのこの世の鬼を殲滅するためだけに、存在するんだ」
感情の希薄な瞳の少女を思い出し、阿曽は身震いした。
「そう。で、鬼を始祖って言ったけど、それにも区別がある」
ようやく大人しくなった須佐男の手を離し、大蛇が会話に入って来る。
「温羅のような生粋の始祖―鬼―の他に、何故か鬼に変貌してしまう人間がいる。以前は『
「人喰い鬼は、鬼が変化したものだ。何が影響してか、いつの頃からか一部の鬼が変貌した。……オレたちは、その原因を探っている」
須佐男は酒の器を脇に置き、そっと阿曽の頬に触れた。びくりとする彼に構わず、じっと目を見つめる。黒真珠のような瞳の中に、阿曽が映る。
「そして、お前は鬼じゃない。なのに、どうして瞳が赤いんだ?」
「――ッ」
目を見開き、阿曽は絶句した。その問いは、阿曽自身が知りたいものだったからだ。俺は、と阿曽は呟く。
「俺は、自分が何処で生まれたのか、親はいるのか、知りません。気付いたら森にいて、生きていました。だから、須佐男さんの問いには答えられません」
「そう、か。なら仕方ないな」
あっさりと引き下がり、須佐男は器を傾けた。しかしもう酒はない。須佐男は空のそれを放り出し、勢いよく立ち上がった。
「よし。
「あね、きたち?」
「そうだね。
「なんたって、高天原の
「ほら、行くぞ。阿曽」
「え? ええっ!?」
情報過多で、理解が追い付かない。温羅に腕を取られて引きずられるように、阿曽は歩く。4人の歩く先には、美しい神殿がそびえ建つ。
ようやく阿曽は、ここが神の世界である高天原だと理解した。
これは、高天原と黄泉の国、そしてこの世を巡る物語。
神と鬼、人間の間で揺れる、阿曽という少年の物語。
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