メフィストフェレスは嗤った

遊月奈喩多

救われぬグレートヒェン

「ただいまー」


 静かな部屋に、声を投げかける。日も落ち始めて、茜色というにはだいぶ暗くなった空の色が板張りの廊下にも移って、電気をつけるのを少し躊躇ってしまう。

 今しかないこの薄暗い空間は電気のスイッチをちょっと触るだけで呆気なく崩れてしまうのだと思うと、まるで世界の生殺与奪を握ったかのような重さを感じてしまうのだ。……けど、そんなの関係ないよね。


「おかえり」

 奥の部屋から聞こえた、か細い声。

 彼女に今日も会えると思えば、こんな狭い空間なんて惜しくはない。すぐに電気をつけて向かうと、彼女はドアを通り抜けたわたしを待ち構えていたかのようにキスをしてきた。


 ――ちゅ、んっ、ぷは、

 唾液を交換しあうような、濃厚なキス。脳髄が痺れそうな感覚に背筋が震えるのを感じながら、赤く火照った顔の彼女も同じであることを確認して、お互いの衣服を優しく脱がしていく。乱暴にはできない――脱ぎながらキスしてくる彼女が怯えてしまうからだ。

 鎖骨、胸、あばら、お腹、もっと下まで、彼女の唇は必死に吸い付いてくる。


「……どうしたの、今日は?」

「――、最近帰りが遅かったから」

 キスから愛撫に変わった唇を離して彼女が発したのは、まるで小さな子どもが拗ねたみたいな言葉だった。そんな彼女に向かってわたしは笑って、「大丈夫だよ?」と答える。膝を落として抱き締めた身体はもう熱くて、きっと準備、、はとうに整っているんだと感じた。


「わたしが帰ってくるのは、ここ。愛佳あいかが待ってくれてるここなんだからね?」

「そう……そうだよね、ありがとう、ありがとう」

「……っ、」


 泣きながらも指先の動きを止めようとしない愛佳。思わず声を漏らしそうになりながら、わたしは愛佳と同じことを返す。顔を赤らめて、余裕のない息遣いでわたしにしがみついてくる彼女の唇にもう一度キスをする。

 身体を痙攣させて、腰砕けになったような愛佳の姿を見届けて、わたしたちの行為は終わり。


「……沙耶さや

 浅くて荒い息を何度も吐きながら、愛佳がわたしを呼ぶ。絡められた指は、しっとりと汗ばんでいる。

「沙耶は、どこにも行かないでね?」

「行かないよ、どこにも」

 愛佳が目を瞑っているのを確認しながら、わたしは真正面に飾られた遺影を見つめて答えた。心のなかで、視線の先に語りかけながら。


 待ってて、まだ今はそのときじゃない。

 復讐、、はまだ、終われないの。

 もうちょっとお姉ちゃんを見守っててね、沙希さき


 昔の面影なんて微塵もなくなった愛佳を抱き締めながら、そう、妹の遺影に祈った。

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