雲上のラナンキュラス
〜4.雲上のラナンキュラス〜
深い闇は、やがて朝を迎えるために少しずつ薄れゆく。
黒々とした闇が紺に変化し始めた頃、二人は山の中腹へと降り立った。
夜明け前の、
「直接頂上には降りなかったのね」
不思議そうに問うたシェーナに、アズロは曖昧に微笑んだ。
少しの間無言で歩き続けると、何本かの樹が絡まり合って巨大な樹を形作っている、ほんの少しだけ開けた場所に辿り着く。
アズロはその樹に片手で触れると、聞いたこともないような言語を口にした。
瞬間。
樹の表面が歪んで、アクアにあるという古代遺跡の絵のような、文様の刻まれた白い円柱で組まれた門が姿を現す。
眼前に現れた立派な門の中へと、アズロは一歩踏み出して、それから後ろを振り返って、ふわりと笑って手を差し出した。
「行こう、シェーナさん。大丈夫、すぐ着くよ」
決意を宿したようなその眼差しに、シェーナは唾を飲み込むと、手を取って中へと足を踏み入れる。
それからゆっくりと手を放すと、アズロの隣へ並んだ。
門の奥、長く続く廊下の先を見据えて、一度瞳を閉じ、それから見開く。
ざわり、と、胸がふるえた。
廊下は迷路といっても過言ではなく、ゆく者の手を尽く阻むかのように見えた。
門から数十歩ほど歩いた先は三つの別れ道になっており、ひとつの道を選んで歩いたその先にはさらに五つの別れ道。
縦横無尽に続く樹海の如き柱廊を、アズロは迷いなく進んでいった。
時折行き止まりにぶつかったが、その壁に手を当てて何かを呟くと、先に道が出来てゆく。
シェーナはただ呆然と、アズロの足取りを追っていた。
「疲れさせてごめんね。……これで最後だ」
横に目を遣りシェーナの疲労を窺いつつ、アズロは目の前の壁に手を当てると、今度はシェーナにも解る言語で囁いた。
『ここに在りしは、地の歩み
抑揚のない声だった。
感情の見受けられない、声。
ちらとアズロを盗み見ると、酷く悲しげな表情が、そこにあった。
シェーナの視線に気付いたのか、一瞬にしてアズロの顔にいつもの笑みが戻る。
『……扉よ、蒼の里へ導き給え。名をかけ願おう。我、天の
言葉に、眼前の風景が変わる。
壁があったはずの場所には、広々とした草原が広がっていた。
アズロはゆっくりと片足を踏み出すと、片足を柱廊の空間に残したまま、シェーナの手を求めた。
シェーナがそれに手を重ねると、先に入って、と誘導する。
シェーナの両足が、全身が草原へと降り立ったのを確認すると、アズロも、未だ柱廊の床を踏んでいるもう片方の足を草原へと進めた。
ゆっくりとシェーナの手を解くと、アズロはシェーナの正面へと向き直って微笑む。
緑の瞳が、様々な色に揺れていた。
「ようこそ、シェーナさん……僕の故郷、ラナンキュラスへ」
嬉しそうに、寂しそうに、アズロは言った。
さやさや、さやさや。
風が、そよぐ。
寒気に包まれた山の中とは異なり、この場所は春の陽気に満ちていた。
眼前には、広々とした草原。
少し遠くに、青い色の花が群生しているらしい大きな花畑が見える。
ここは一年中ずっとこの気温なんだよと、隣でアズロが笑った。
風景は外界と変わらず、気温だけが通年温暖なんだ、と。
アズロはそれからゆっくりと歩き出すと、蒼の花の花畑へ向かい地面に膝をついて、少しの間黙祷を捧げた。
さやさや、さやさや。
そよぐ風に空色の髪をなびかせて、再び立ち上がる。
夜明けの光が一面を照らし出し、草原が群青から青へ、紫へ、赤へ……。
そして、眩いばかりの若草色へと変化していった。
広い草原の向こう側は崖になっているらしく、空の蒼が間近に見える。
どこまでも果てしない、緑と青。
二色の織り成す、淡く鮮明な世界だった。
「……」
シェーナが無言で景色を眺めていると、少し離れた場所で、アズロはそっと口を開く。
「……昔はね、ここに、隠れ里があった。……シェーナさんの大切な人の名前は、もしかしたら……シェエラザードかな?」
「!」
姉で母。
シエラの滅多に語らなかった本名をアズロの口から聞いて、シェーナは何の言葉も浮かばぬまま開口した。
「……そうか。だとしたら、僕はシェエラザードさんの父親の名を知っている。……名は、エスタシオン。彼の人は、僕より二十歳年上で、この里が消える五年前に里を下りた。ヴァルドの民のとある女性に恋をしてね、半年に渡る論議の末、この里へ来るための知識と、能力の全封印……そして、子が十歳になった時に自らの命を絶つこと──できない場合は里の同胞に命を断たれること──を条件に里を下りることを許可された最初の人間にして、唯一の人間だよ。……彼は、言っていたそうだ。生まれた子には、シェエラザードと名をつけるのだとね」
「……じゃあ……シエラねえさんは……。それに、命を絶つって……?」
シェーナの言に、アズロはそっと瞳を閉じる。
遥か昔の里の情景を一瞬だけ思い描いて、再び目を開けた。
空を見上げて、それから視線を地面へと向けて、正面へと戻す。
「順を追って説明するよ。驚くだろうけど、まずは聞いて欲しい。……いいかい?」
穏やかなその問いに、シェーナは無言で頷いた。
「彼は……エスタシオンは、嵐を起こす能力に秀でていた。……全封印をかけたとはいっても、特に秀でていたその能力を十分に抑え切れなかったのだろうね。……彼の子は、リリーの能力のほかに、嵐を呼ぶ能力をそなえていたそうだよ。シェーナさんが驚いているということは、シェエラザードさん……シエラさんは、父親の彼から伝わった掟を守って、リリー以外の能力を使わなかったようだね。……それから、命を絶つというのはね……」
アズロは言葉を切ると、一度静かに息を吸って、吐く。
それから少し間を置いて、御伽噺のような事実を口にした。
「ラナンキュラスの民の寿命は二百八十歳から三百二十歳と長命なんだ。……僕らは……僕の役目は、リリー以外の能力が暴走を起こすのを抑えること。能力は時に、能力者自身をも蝕むからね……この地を基点にし、世界各地を渡り歩いて、能力の絡んだ事故を防ぐこと。悲劇を最小限に留めること。それから──いや、これは後でいいね。……この里の民は、生まれてから幼年期までは普通に成長し、長い少年期……もしくは青年期を迎えた後、短い老年期を終えて眠りにつく。……エスタシオンは、その長い寿命を、普通の人間と同じように……違和感のない時点で断つことを条件に、里を下りたんだ。里が滅びて、生きている彼の命を狙うものもないというのに、シエラさんの口から彼の名が出なかったのなら……彼は自ら、命を絶ったのだろうね。……シエラさんに、託すべきことを託した後に」
話し終え、深く息を吐いたアズロに、シェーナは朦朧とする頭で話し出す。
「……だいたいのことは飲み込めたわ。ぶっ飛んだ話だけどね。……あなたと会わなければ信じなかっただろうけど……。けど、姉さんの……今はいない大切な人で、育ての親で、姉の……シエラねえさんの言葉。そして、あなたの能力……知識……この空間。嫌でも信じさせられる」
シエラねえさんの、最期の笑顔……ラナンキュラスを語った真剣な瞳。
母親も父親も、早くに亡くなったの、と静かに微笑んだねえさん。
母親は病気と聞いていたけれど、父親については決して語ることがなかった。
その裏側に、こんなことがあったなんて……。
あの笑顔に、笑顔の背中に、こんな世界があったなんて。
全ての民の、幸せを……。
シエラねえさんの日々の願いに隠された、小さな願い。
思い返して、シェーナは額に手を当て、かたくきつく、瞳を閉じた。
『あなたがいなかったら……わたしは……きっと』
言葉の続きを、想う。
ねえさんはきっと、ラナンキュラスの里が存在していると……。
それでも自分を助けるために、掟を破ってでも──。
けどあの時は、偶然この力が発動して……
それで……
……
……ああ……
そうか……そうだったんだ……。
シェーナは瞳を開けると、ほんの少しだけ潤んだ瞳で、アズロに微笑んだ。
調子を戻すと、呆れたような声でアズロに問いかける。
「──で。あなたは何歳なんです? アズロさん」
アズロはシェーナの口調に微笑むと、人差し指を一本立てて自分の口に当て、内緒ですよー、と断ってから、さらりと言った。
「今年で五十八になります。ラナンキュラスの年齢にしたら、まだまだ若輩者だけれどね。シェーナさんたちの感覚でいくと、初老かな。……ちなみに、シェーナさんの話しぶりを聴くと、ずっと若いと思っていたみたいだけど……シエラさんも四十歳は越してる。エスタシオンの子といえど、血が混じった時点で寿命が受け継がれることはない筈だから、普通に若作りだったんだろうね」
──無言の時を経て数秒後、二人しか居ない草原に絶叫が響く。
叫びは山々に木霊して、何度も何度も響き渡った。
アズロはくすくすと笑い、地面にへたりこんだシェーナをそれはそれは楽しそうに見つめていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます