あの鮮やかな夕焼けを

〜4.あの鮮やかな夕焼けを〜



 深く深く、眠りにおちていく。

 目に見えていた宿屋の天井が、目を閉じゆくにつれ、高く遠くなっていった。


 ──夢が、迫る。


 隅々まで掃除の行き届いた、小さな埃すら舞うことのない空間。

 湖の表面に光が差したような、淡い青や翠の石が密に組まれて作られた、広く深い建物。


 都アフィリメノスの地下にひっそりと佇む施設の中の一室に、シェーナは座っていた。

 五人でも使うことのできそうな大きな石壁の部屋の中央に、一人膝をかかえる。


 両手が、両足が、小刻みに震える。

 鮮明な記憶が拍動を高め、荒い呼吸が、静かな部屋に響いていた。


 両目から、不意に涙が溢れる。

 思わず叫びそうになって、口を押さえようと左手を顔に近づけて……


 そこで、息が詰まった。


「あ……かっ……う……」


 ほとんど何も入っていない胃から微かに逆流したものが、口許を伝って流れ出る。

 ほんの少しだけ床に零れたそれを、長い服の裾で拭うと、気持ちの悪さと、長く続く息苦しさに眉を寄せた。

 辛うじて動く体を這わせ、壁際へと背中を預ける。


 空ろな瞳で高い天井を見上げると、右手で胸を押さえ、苦しさに身を委ねた。





 ──あの日は、帰ったらごちそうだったんだ。




 収穫祭も近くて、村も活気立って。

 色とりどりの旗がそよぐ屋根屋根に、高揚を覚えて。

 祭りの時期になると毎年やってくる旅の一座が奏でる楽曲が、朝に晩に、広場に響いていた。


 陽気に踊る笛の音、明るく澄んで流れるリュートの音、朗らかな歌声。

 買い物に出た帰り道、背中で音楽を聴きながら、シエラねえさんと二人で笑った。


『二人で前夜祝いをしましょうか』


 そう言ったシエラねえさんの手をとって、嬉しくて飛び上がったんだ。


 そう、あの日は……いつもの仕事が終わったら、とれたての実を絞ったジュースで乾杯して、市で買った新鮮な食材でとびきりおいしいものを作って、思いっきり味わうはずだった。

 市は村の入り口付近にあって、通る旅人が足を止めやすいつくり。朝夕二回の仕入れがあって、新鮮な食材が並ぶ。民家は村の中央に、村長の家と催し物の広場を中心に置く形で円形に広がっている。

 村から少し離れたところには、収穫の源の畑が続いていた。


 あの日、シエラねえさんの診療が少し長引いてしまって、あわてて片付けて二人で急いで閉まりかけた市へ走った。

 ほとんどの店はもう看板が下りていて、空いていたのは一軒だけ。

 もう売切れてしまったかと思われた目当ての食材がなんとか手に入って、シエラねえさんと一緒にはしゃいで……


 お礼を言って帰路について、数十歩歩いたとき──




 絶叫が、背後に響いた。


 思わず振り返って……。


 立ち竦む。




 そこにあったのは、信じられない光景だった。




 耳に響く、重く低い、獣の唸り声。

 風に流れてくる、錆びた鉄のような、鼻をつく臭い。

 笑顔で見送ってくれたお店の人が、店先に倒れて……

 ぴくりとも、動かない。




 無残に壊れた木組みの屋台。

 所々にちらつく、不自然にくすんだ赤い色。

 動かないその人間を、鋭い牙を持つ狼の群れが囲んでいた。


 一、二……十以上いる。


 前方に陣取るものの牙の先端からは、赤い雫が滴っていた。




 どくん、と、胸が大きく脈打つ。

 瞳が見開かれる。

 嬉しさも楽しさも、一瞬にして消し飛んだ。

 微かに聞こえる中央広場の喧騒が、耳から耳へと抜けていく。


 硬直して動きの取れない体に反して、頭には数え切れないくらいの思いが溢れた。


 止め処なく溢れてくる、負の感情。




 考えているひまはない。


 ないけれど、体が動かない。


 最悪の未来が、ありありと眼前に描き出された。




 今まで、狼が村を襲ったことなんて一度も無かった。

 村のある地方に、狼が出たことも、一度も無かった。


 近くは平地だ。

 狼が好んで棲むような場所もない。



 どうして……



 焦る感情をよそに、次の獲物をとらえた狼たちは、強い眼光をこちらへと向けていた。


 ぽたり、と、牙から涎が滴り落ちる。


 荒い鼻息、途切れることのない、唸り。




 ぞくりと、身が震える。




 おそらく駆け出したら、すぐに追いつかれる。

 助けを呼ぼうにも、市から民家までは少し離れている。

 あれほどの絶叫で誰も出てこないという現状が、底なしの絶望を抱かせた。




 じりじりと、恐怖が迫る。


 ──体が、動かない。


 嫌な汗が、体中にまとわりつく。




 シエラねえさんが、ぎゅっと強くこちらの手を握った。




「……逃げなさい、シェーナ」




 シエラねえさんは囁くと、足を地面から離さず、引きずるように、狼の群れに近づいていく。


 狼の群れは、シエラねえさんを囲うように、じわり、じわりと近づいてきた。


 近づくにつれ、鋭い牙が、むき出しになる。




 一歩、一歩、ねえさんが遠くなる。


 ねえさんと、狼が……近く……


 私は……

 わたしは──


 でも、シエラねえさんが……

 シエラねえさんは……



 どうしよう。

 どうしよう。

 どうしたら……。



 こわい。

 どうして。

 いやだ……

 いやだよ……



 なんでこんな──



 ねえさん……




 ──シエラねえさん!




 シエラねえさんがそっと口を開いて手を動かすのと、それはまったく同時に起こった。


 突風が、狼の群れを村の外へと押し出す。

 無数の風の刃が群れを目指して走り──


 瞬く間に数頭が場に倒れ伏し、残りは走り去っていった。


「………!」


 シエラねえさんの口が大きく開いて何かを言ったけれど、何も聞こえなかった。


 気がつくと、体の周りを竜巻が囲っていて。

 周りの音が聞こえない。

 凄まじい風の音が、痛いほどに耳に響いてくる。


 周りのものが見えない。

 土と埃と板と破片と、様々なものを巻き込んで眼前に広がる厚い空気の流れが、視界を遮る。


「なに……これ……なんなの、何……? ……なんなの……わからない……こわいよ……わからない」


 はらり、と、何かが舞った。

 淡い色の、布。

 地面に落ちたそれは、シェーナが気に入っている服の一部だった。


 次いで、紅い雫が、ぽたりと落ちる。


 ピリッ。

 ピシリ。


 服の所々に裂け目ができ、細かな布切れが重なり落ちていく。

 風が、シェーナ自身をも巻き込んで力を増していた。

 腕に、足に、無数の傷が生まれる。


 全身に広がる痛み。

 ただただ吹き荒れる風の音と、開けることのない視界。


 シェーナは叫んだ。




「止まって! お願い止まって! 止まってよ……! とまって―――!!」




 どのくらいの時間が経ったのだろう。

 いまだ止まない風の中で、シェーナは泣いていた。


 立っていることすらできなくなり、地面へと座り込む。

 傷は、時間が経つにつれて深くなっていった。


 痛みと恐怖と、わけのわからない事態。

 血を失ったせいだろうか、暗転を始めた視界に、意識自体も揺らぎ始める。




「……ナ……シェーナ!」




 近くに響いた声に、消えかけていた意識が戻る。




「シエラ……ねえさん……?」




 問いかけると、正面から返事があった。



 少しずつ、少しずつ、風の壁が開いてゆく。


 開けてきた視界に、傷だらけのシエラねえさんが映った。


 シェーナを取り巻く風の刃を直接受けたのだろう、自分の傷よりもさらに深い傷が、シエラねえさんの体に刻まれていた。


 いつも白い顔が、今は青白く。


 まるで、命そのものが──




「──あ……き……」




 掠れて、声が出なかった。




 来ちゃだめ。




 それを言う前に、風の中へと入ったシエラねえさんに、抱きすくめられた。




「助けてくれて……ありがとうね、シェーナ」




 シエラねえさんはにっこりと微笑むと、シェーナの体へ、素早く手を当てた。

 片方の手を傷の深いところに、もう片方の手をシェーナの左手へと当てて、念じる。




「あなたが……いなかったら……きっと……わたしは──ラナ……」




 言葉は、長くは続かなかった。




 シエラねえさんは微笑んだまま、揺らいで……


 地面へと、崩れる。


 土と石だけの茶色の地面に、仄かに赤みが広がって、土に吸われて沈んでいった。




「………」



 言葉が、出てこなかった。


 ねえさんの名前を呼んで、体を揺さぶっても、もう返事はかえってこなくて。


 濃さを増す鉄の臭いが刺さって。


 いつの間にか止んだ風に開けた視界に映る、鮮やかな夕焼け空に、めまいを覚える。




「………」




 乾いた両目で暮れゆく空を眺めたまま、少しの時間が経った頃……




「……ば……化け物……っ」




 背後からの震えた呟きと、鈍い衝撃を頭に感じて。


 そこで、シェーナの意識は途絶えた。







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