第12話 敗北

 トゥーレル砦を失ったことで、オルレアンの包囲は破綻した。

 翌日には他の砦からも退却を始めたが、ジャンヌを装備したラ・イールはこれを追撃。兵をまとめたサフォークがジャルジョーで籠城戦を挑むも破られ、捕虜となってしまった。


 なおもバタール、ラ・イール、ザントライユは追い打ちの手を緩めず、死者と捕虜は2千名以上にのぼる。


 完璧な敗北だった。

 大陸での戦力を失ったジョンには、本国から増援が到着するまで挽回する術はない。


 その間にシャシャはランスで聖別し、国民の前で正式にフランス王シャルル7世を名乗った。傍らにはオルレアンの救世主となったラ・イールと、その手にはジャンヌ。

 そして一行がランスに至るまでの間、フィリップは一切手出しをしなかった。そういう協定なのだろう。


「シャシャがフランス王名で、君を帰国させるよう要請してきた」

 通信画面越しのジョンからは、いつものピリッとした覇気が感じられない。

「この機を逃したらフランスに帰れる機会はもう二度とないかもしれない。だから君の気持ちを正直に聞かせてくれ」


「正式なフランス王はシャシャではなく、息子ヘンリー6世です」

 ケイトは即座に答える。ジョンは知らぬだろうが、公式文書とは別に同じ内容の私信はこれまでにも数え切れないほど届いていて、返信をしたことはない。

 幼いと思っていたハリーも八歳になり、自分でものを考え、発言するようになった。


「私は一生ハリーの母、そしてヘンリー陛下の妻です。イングランド人として生涯この地を離れることはありません。陛下が見せてくれた、美しいイングランドの景色が好きです」


 英語だって不自由なく使えるようになった。ヘンリーとの思い出とハリーの成長がこの八年間の支えで、それを今さら捨てる気などない。


「ケイト…、ありがとう」

 弱々しいジョンの顔に胸がきゅっとなる。体がざわざわして、居ても立ってもいられない。

 本当はあなたのそばにいたい。そう言えたらどんなにいいだろうか。


「ジョン、あなたこそお願いだから無理はしないで。どうか、体を第一に」

 しかしそれが精一杯だった。


 イングランド本国の議会では、オルレアン包囲戦に敗北しシャシャを戴冠させてしまったジョンの責任を問う声が挙がっている。ハンフリーが必死に食い止めてはいるが、決して芳しい状況ではない。前線の窮状を訴えても議会の反応は遅々として、異国の地でジョンは孤立無援状態なのだ。


「本当は、少し怖いんだ。ヘンリーが心と命を削りながら努力して手に入れたものを、すべて失ってしまうのではないかと思って」


 それは、ジョンが初めて見せてくれた弱音だった。抱きしめたくて震える。

 けれど手を伸ばしたところで画面越しで、触れることなど叶わない。画面の下で一人スカートを握りしめる。


「それは…私のせいかもしれません」

「なぜ?」

「ヘンリー陛下の剣からメモリーを抜き出すようにと、シャシャから頼まれていました。何も考えずに私は…。今まで黙っていて申し訳ありません」


 完成したラ・イールのエンパワメントはジェーンのコピーだったと、ハンフリーから聞かされた時にようやく気付いた。


 ジェーンのデータが入ったメモリーを手に入れて欲しいとシャシャから求められたのは結婚式の時だから、十年近く前のことになる。その頃からイングランドに、わけてもジョンに対抗しようとしていたとは想像だにしなかったが、今になって後悔しても遅い。


 ジョンは唇を一度結び、それから包むように言った。

「君のせいじゃない。時が経ったんだ、フランスに開発者が現れてもおかしくない。それを直視しようとせず、対策を怠ってきたおれの責任だ」


「そんな…、あなたは一人でずっとお忙しくて心身を削っているのに、私は足を引っ張るようなことをしてしまい…」

 それでもジョンは微笑んでくれる。

「実は、フィリップをパリに招こうと思っているんだ。何かいい案はないかな」


 ブールゴーニュとの間にひびは入ったが、まだ完全に同盟が破棄されたわけではない。本国からの増援を待つ間にジョンは、フィリップの歓心を取り戻すつもりなのだ。

 ケイトの亡き姉ミシェルは、フィリップの最初の妻だった。ミシェルを頼ってフィリップの屋敷に滞在させてもらったこともある。


「ブールゴーニュ公は美食家でこだわりが強くて、そうだわ、絵画や彫刻がお好きです。あと従者は見目麗しい男性でそろえていて、お気に入りの画家も何名か抱えていましたわ」


「女性関係は?」

「男女を問わず美しい方はお好きなようですが、愛人の類は一度も見たことがありませんし、姉からも聞いたことはありませんでした」


「だよなぁ。あとはあいつの喜びそうなものは何だろうか」

「そうですね…、父君の無怖公は派手好みの方でしたが、フィリップ殿は地味な方ですものね」


「ていうか変人だしな」

「ふふっ。私も考えておきますわ」

 通信を終えると、満ち足りたような、でもどこか隙間を埋めきれないような気持になる。


 やっぱりジョンは全てを語ってはくれない。今日だって、ほんの少し弱気を見せたが、心を見せてくれたわけではなかった。


 なんて愚かなことをしてくれたのだと、怒りのままなじってくれればよかったのに。冷たい目で見下して、罰を与えればよかったのに。

「そうしたら嫌いになれたかもしれないのに…」


「王太后様」

 誰もいないと思っていた部屋に響く男の声。


「テューダー…、なぜいるの。入らないよう言ったはずです」

 しかしテューダーは口ごもったままだ。

「はっきりと言いなさい。用がないのなら、少し一人にしてちょうだい」


「摂政閣下を恋い慕っていらっしゃるのですか」

「……何を言い出すのですか、藪から棒に」

「以前、キスされていました」


 思わず息が詰まる。しかしテューダーはその場を去るどころか、近づいてきた。

 彼は秘書官として長くケイトに仕えていて、生活の中では最も近しい一人といえる。だからと言って、共有できる一線は踏み越えて欲しくはない。ケイトはあえて怒りを表出させるよう努めた。


「見ていたならわかるでしょう。あの方とは何もなかった。それで終わりです」

「ええ。しかし、これをアンヌ公妃が知ったらどうでしょうか? 自分の夫が義理の姉とキスしていたと知ったら、どう思われるでしょうか。アンヌ様はブールゴーニュ公との大事なかすがいですからね」


 テューダーの口は笑っているが、目は全く笑っていない。

「…何が言いたいのです」


「キスだけで終わったのかと疑う方が普通でしょう? 夫婦関係にひびが入るかもしれませんね。夫の浮気相手はあの悪女イザボーの娘なんですから。あぁ、そうですよ、イザボーも義理の弟オルレアン公と愛人関係でしたから、母と娘で全く同じ。まるで絵に描いたようですね。それを知ったら、ブールゴーニュ公はますます摂政閣下と距離を置くのではありませんか」


 明らかな脅迫だ。しかしケイトには否定できない。あのジョンが弱音を漏らすほどの窮状であり、その一端は自分の責任でもある。これ以上、彼の足枷になる要素は排除せねばならない。


「何が望みなの。地位か、領地か」

「私を秘書長官にしてください。もっと、あなたのお側にいられるように」


 テューダーが近づいてくる。ここで逃げるわけにはいかない。交渉しなければ。金銭と地位で形がつくなら構わない。はりつけにされたようにケイトはカウチから動かなかった。


 しかしテューダーはダークブロンドの前髪を揺らしてかがむと、燃える指先でやわらかな頬に触れる。なぞりながら、唇、反対側の頬へ。


「それから、あなたが欲しい」

 唇を吸われて、反射的にテューダーの顔を平手で打ち、立ち上がる。しかし腕を掴まれ、強引に胸の中へ引き戻された。


「離しなさい!」

 押し返すが、岩のように頑としてビクともしない。


「私は王母よ! こんなことが許されると———!」

「あぁ、やっぱりやわらかい。ずっとあなただけを見ていました。お側に居たいのです。抱きしめたいのです。あなたの摂政閣下への気持ちと同じですよ」

「違うわ! こんな身勝手な…!」


 身をよじろうとするが、それすらも許さない、太い鎖のような両腕に縛られる。

「何が違うのですか? あなただって無理矢理キスしたじゃないですか。どうしてあなたは良くて、私では駄目なのですか」

「いやっ! 離してっ!」


 通信の時間は人を部屋に近づけないようにしているから、助けを呼んだところで誰にも聞こえない。山のように重たい男の体に抗うのを諦めれば、それはあまりに一方的な愛撫だった。


 痛みに呻く。目をつぶって必死に耐える。けれども顔に生暖かい吐息をかけられて、涙が流れてしまった。


「愛しています。愛しています…! 私があなたの支えになります。これからもずっと」

 テューダーは何度も何度もそう言いながら、悦びに震えた。


 ヘンリーの手は冷たかった。けれどもう、その感覚を思い出せない。

 テューダーという壁の中に体ごと塗り込まれてしまった。一生出られないのだと思うと、流れる涙を拭うこともできなかった。


 

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