第3話 ターレンたちの苦悩は故宮の傍ら
2021年9月9日(木)
北京・
「これは一体どういうことだ!! 完全な濡れ衣だ!」
『総書記、まったくあなたのおっしゃる通りです。これは明らかにアメリカが我々に濡れ衣を着せようとしているのです』
「そんなことは分かっている! 私が怒っているのは、なぜアメリカにこんな行動を取らせるほどの勘違いをさせたのかと言うことだ! 理由があるはずだ!
国家安全部長!」
『はっ! 国家安全部長・宋が総書記に申し上げます!』
ガタリ、と乱暴なほどに大きな椅子の音をたてて、国家安全部の部長である宋が立ち上がった。。
その表情には予想外の出来事に直面した時の緊張がにじんでいる。彼はアメリカでいえばCIAやNSAの長官、ソ連やロシアでいえばKGBやCBP、FSB長官に相当する諜報活動の元締めである。その彼が明らかに動揺をあらわにしているのだ。
(まったく、一体何が起こったのだ……!)
この中南海において、習近平がこれほど感情をはっきりと表に出すのは珍しいことだった。
無論、中国流のポージングとして、人民に対して怒りを示してみせることはある。
たとえば格下と扱う相手に対しては、尊大に
人民は
この国は敵、この国は味方。こいつは汚職官僚、この人物は立派な大人(ターレン)である……そのように習近平の振るまいを見て理解するのだ。
トップの言葉ではなく、振る舞いによって十数億の人民はその認識を統一するのである。諸外国がしばしば中国という巨大な人民のるつぼを誤解する原因の1つが、このシステムであった。
『申しあげます、総書記。
我々は……我々、国家安全部はアメリカと敵対する行動をすでに取りやめております。
恒常的なサイバー攻撃作戦すらも今年は停止しており━━』
「サイバー攻撃だと? 安全保障のための活動……そうではないかね?」
『はっ! その通りです、総書記。
つ、つまり、アメリカに対しては積極的な対外
一体どうして彼らがあのような勘違いに至り、信じられない濡れ衣を我々に着せたのか……現在も全力で調査にあたっております』
「……よもや諸君の中に知らない者はいないだろうが、念のためにここで直接聞かせておく」
国家安全部長・宋の報告に対して
その仕草を見て、会議室へ集った中国共産党の高官たちは、一斉に手元の資料を手に取った。むろん、習近平が見ている資料と同じものである。タブレットやノートパソコンではない。高官たちの年齢に相応しい紙の資料だった。
「諸君、アメリカの主張はこうだ。
『今や我が合衆国は……中華人民共和国が新型コロナウィルスを用いたテロ攻撃を、我が政府中枢に対して計画しているという、確かな証拠を手にするに至った。
武漢研究所からの流出からこの方、合衆国は寛容と忍耐をもって中華人民共和国に対応してきた……だが、もはや事態はルビコン川を渡った』。
これはむろん、まったくの濡れ衣だ。だが、重要なのは奴らの要求だ。
『2020年1月の第1次流行、2020年冬の第2次流行、そしてこれからの冬に予想される第3次流行。これら新型コロナウィルスの流行によって合衆国が被った損害の責任を認め、賠償し、追徴金を支払え』
よりにもよって、トランプはこれを何の事前調整もなしに世界のマスコミにむかって公表した!」
ぞっとするような非常事態であることは、誰にとっても明白であった。
数年前から継続中の貿易摩擦など問題にならない。まして、トランプがぶち上げたWHOへの資金拠出停止や、世界をどんよりと覆う不景気など軽い問題に見える。
長い沈黙があった。誰もが二の句を継げないのだ。
もし真っ先に発言して、間違ったことを言えば責任を取らされる━━もちろん、それもある。だが、人はあまりに巨大な問題の前では、ただ沈黙することをだけを選んでしまう。保身ではない。強い電撃に打たれて身動きもままならないのだ。彼らの対応能力を超えてしまっているのである。十数億の人民を擁する巨大国家の選りすぐりたる彼らですらも、対応できない問題なのである。
「私は諸君らに問う」
それでも
そして、世界各国の大衆がカジュアルに抱く独裁者イメージと異なり、本質的には調整型の人間であった。
実際のところ、本人も、側近たちも、独裁者にはほど遠いと考えている。何事においても、周囲の意見をまず聞く人物だった。皇帝めいた独裁者に祭りあげているのは、つまらぬ小物官僚やメディアである。その点は、ある意味で亞倍晋三と似ているところがあった。
中南海の会議室はじっとそれを待っている。コンクリートの建築と、木造の古びた内装。30年前に建てられた中国の田舎庁舎だといっても騙される者がいそうな、信じられないほど質素な空間。
一般人の見学者やマスコミ、研究者すらもシャットアウトした、世界でもっとも秘密に包まれた政治中枢で、今、歴史が動こうとしていた。
「諸君らはこれをアメリカの宣戦布告と捉えるか、それとも否か?」
『━━━━━━!』
自分こそが一番乗りだ! 誰かが言葉を発しようとした瞬間、習近平は北京市街の道路へ飛びだす子供を制止するように右手を突き出した。
喉元まで出かけていた、誰かの声が呻きに変わる。
「補足しておく。これは象徴的な意味ではない。
つまり、本物の戦争をアメリカと始めるべきかどうか……そういう意味だ。
さあ、諸君。忌憚ない意見を聞かせてくれたまえ」
先ほどにもまして、長い沈黙が訪れた。
宣戦布告です総書記━━などと、景気のいい一番乗りを企もうとする者はいなかった。あまりにも恐ろしい問いかけに過ぎたからだ。
朝一番に始まった会議は、結局、夕方まで続いた。
後の歴史書である『民書』に言う。中華人民共和国建国以来、これほどに重苦しい決定はなかった、と。
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