鉄道少年マニア君がゆく
与方藤士朗
第5話 ルービックキューブと、O大鉄研に来た小学生
1980年11月29日(土) O大学学生会館にて
O大学の学生会館では、毎週土曜日の昼から、あちこちのサークルが集まって例会を開いていた。
この学生会館は鉄筋の2階建。
1階はフリースペースで、だれもが使える場所なのだが、2階に複数ある集会室のどこかをわざわざ借りてまでやる必要のないときや、他の団体が既に使用して混んでいるため使えないときなどは、この1階のホールを使って例会をするところも少なからずある。
もっとも、特に込み入った話でもない限り、2階の集会室を借りるほどのこともない。
鉄研こと鉄道研究会もその例にもれず、この日は1階のホールを使って例会をしていた。新歓時のような新入生が来るときは別として、もうすでに会員同士の顔が割れているこの時期は、何か標識になるようなものをわざわざ出すこともない。ちなみにこの鉄研の標識は、線路上に起点より何キロの地点化を示すためにあるキロポストと言われるものを模して木で組立てられたもので、表面には画用紙にゴシック体で「鉄道研究会」と書かれていた。
「あの少年、来るかなぁ?」
誰ともなく、そんな声が上がる。
「いや、間違いなく、来るな」
そう言うのは、農学部2回生の国江氏。
「そうですね、小学校が終わって彼が家に戻って食事でもして、そんなことを考えたら、2時過ぎには来るでしょう」
そう言うのは、今年度の津島キャンパスの新入生2人のうちの一人でもある、工学部1回生の横沢直樹氏。
津島こそ2人が残っているだけだが、鹿田の医学部側は、この年3人もの新入生が来ていた。津島側はともかく、鹿田側はちょっと癖のある、はたから見るとマニアックに思えるような人ばかり。
去る1979年、鹿田側の新入生はいなかったものの、津島側は多数の新入生がこの鉄研こと鉄道研究会に入会していた。誰もが個性的で趣味人としてもなかなかの見識と腕前の持ち主ばかり。
1976年の設立時に1回生だった会員はこの年の3月で卒業、少しずつながら、鉄研の新陳代謝も行われつつあった。
創立メンバーの一人、理学部大学院生の石本秀一青年は、この年多忙のためほとんど例会に顔を出していなかったものの、その状況を後輩各位から聞いていた。
当然彼は、大学祭でとある少年が「スカウト」されたことも聞き及んでいた。
後に彼は医学部医学科に再入学して米河少年を特に鍛え上げる役を負うのであるが、このときはまだ、後輩諸氏の話を聞いていただけだった。
それでも、その「スカウト」があった話を聞いて、彼は、これで鉄研もあと20年近くは持つだろうな、という感触を得たという。
時計の針はまだ13時過ぎ。
当時はまだ土曜の午前中にも各学部は講義が設定されていた。O大学の講義が週休2日になるのは、1989(平成元)年からのこと。それまで、毎週土曜日は水曜日の午後とともに、各サークルの集まりをする絶好の時間帯だった。
「あの少年」とは、当時近くの小学校に通う米河清治、当時5年生。
彼は、先週行われたO大学祭の鉄道研究会の展示に、3日間、昼から夕方まで通い詰めていた。もちろん大学祭には、近所の子どもたちも多数来る。特にこのO大学のある近辺の学区の小学生たちを中心に、男の子たちが少なからずやってきては大学生のおにいさんたちと交流しているのは、当時の大学祭の風物詩のようなもの。彼らの中から、未来のO大生が何人も生まれた。彼もまた、その中の一人であった。
しかし、彼には他の少年たちにはない何かがあったのだろう。彼は鉄道研究会以外の展示にさして興味を示すわけでもなく、また、他の模擬店を回ったりもしなかった。後にこそ、他の模擬店も回って運動部系その他のサークル関係者からも「鉄研の米河」としてそれなりに名を知れ渡らせた彼ではあるが、このときはまだ小学生。そこまでのことができたわけでもなければ、大学というところがどんなところかもわかっていない。彼は3日間にわたって、昼から夕方までその地にとどまり、鉄道研究会の展示と模型をじっくりと見たのである。
彼はこのO大のある近くに戦前から建っている養護施設「よつ葉園」で6歳の頃から過ごしていた。その施設の男性職員の一人に、近くのO文理大学出身者がいた。彼の後輩たちは、よつ葉園にボランティアで来ていた。その彼らの何人かが、同じ日に行われる大学祭の模擬店の無料券を持ってきてくれていたのだが、彼はそれにつられることなく、昼から夕方までO大のしかもこの新しい体育館で行われる鉄道研究会の展示に来ることを選んだ。
彼の人生は、当初の予想を超えて、そこから一気に好転に向かい始めた。
「君、うちの会では、毎週土曜日の昼から、例会というものをそこの学生会館というところでやっている。よかったら、遊びに来ないかね?」
前会長で教育学部4回生の石居晶氏が、3日目の11月24日夕方、声をかけた。
「例会って、なんですか?」
小学生が「例会」なんて言葉知っているほうがたいしたものだろう。
彼はもちろん、そんな言葉を知る由もない。
「うちの会の人らが、とにかく集まって、何やら話をするところじゃ。君なら私らの話にも十分ついていけると思うから、一度来てごらんなさい」
これなら、小学生でも何とか理解できた模様。
「は、はい。2時ごろをめどに、来てみます」
「それなら、待っとるで。あ、今週土曜は、私は例会には出られないが、ここにおる人らの誰かが来ているから、その人らを目当てに学館の1回に入ってくればええ」
石居氏の横で、1回生の平田氏がフォローした。彼もまた教育学部の学生だった。
「その時間なら、たぶん私は来ているから、大丈夫じゃ。まあ、来て見られ」
その日の17時過ぎ、会場の第二体育館は閉鎖される。それをもって、3日間にわたる鉄道研究会の展示も終了となる。
翌日も大学の講義は休みで、もっぱら大学祭の片づけに費やされる。
それから5日後の、11月29日・土曜日。
果たしてその日の14時を少し前にして、かの少年はやってきた。
大学生の中にいくらか教職員がいるような場所に、明らかに違和感のある光景が展開されているようだ。
少年は、先日あった「先輩たち」をすぐに見つけて、その輪の中に加わった。彼には「キロポストの標識」など、必要なかった。
ソファーが左右に並んでいるその間には、低いテーブルが並んでいる。
「やっぱり、来たな、この少年」
誰もが、そんな思いを抱いていた。
「君の名前は石居さんと私は聞いているが、他の人は聞いていない。まずは皆さんに、挨拶をしてくれるか」
少年は、当時1回生、まだ19歳になったばかりの青年に促され、あいさつした。
「えっと、この人が農学部2回生の国江さん、こちらが、工学部2回生の浜本さん、それから、こちらのオバチャン(この人は当時21歳だったが、そういうあだ名だった)、もといおねえさんが、教育学部の川手さん・・・」
平田青年が、その時来ていた会員を一人一人紹介した。
そして、プロ野球の新人教育よろしく、少年にこの世界の最低限のルールを教えた。
まあ、こんなことは言うほどのことでもないかもしれんが、君から見れば皆年上で先輩だからな、とりあえず、何とかさんとお呼びするように。親しい年上のおにいさん相手に「何とか君」といってみたりとか、あるいは誰彼なく「先生」というのは、ここでは、おやめなさい。
いいですね。一応ここは大学で、私も含めて同級生にはすでに働いている人もおられる。
ここは、子ども社会ではありません。
そこだけはしっかりとわきまえた上で、最低限の社会常識は守ってもらいたい。
とはいうものの、そんな難しい話じゃない。
わからないことは、私なり他の先輩方が教えてくれるから、そこはきちんとお聞きして、直していけばいい。
ここは鉄道の好きな人なら、誰でも来てええところじゃ。
君は将来どんな世界に行くかはわからんが、この世界に必ず入ってきて活躍できる人物と、先日石居さんが言っておられたぞ。とにかく、毎週土曜日の昼にはここか2階のどこかで例会をやっとるから、来て楽しんで帰ってくれればええ。
玄関先に黒板があるだろう、あの掲示板になんなり書いてあるから、それを見て動いてくれれば、よろしい。
「はい、わかりました」
少年の「新人研修」らしきことは、それで終わった。
やがて、少し大柄で銀縁の眼鏡をかけた大学生がやってきた。
「お、少年、来たな」
「あ、こんにちは」
その2日前の木曜日の夕方、彼らはO大学近辺の国道X号線の路上で会っていた。
この大学生は、医学部医学科の1回生の田沢博氏。兵庫県東部のある街の開業医の息子さん。兵庫県内の中高一貫校を出て、この年現役でO大に入学していた。大学祭の最終日はその年11月24日(月祝)。その3日後の27日(木)の夕方、少し早めに学校が終わって帰ってきた米河少年は、津島町にある養護施設「よつ葉園」の事務室に「外出届」というものを書いて事務所に提出し、それで歩いて十数分先にある模型店に模型を見に行っていた。
その帰り、津島町のキャンパスにある大学の一般教養課程が終って鹿田近辺の下宿先へと自転車に乗って戻る田沢青年とすれ違っていたのである。
どちらもすでに大学祭で面識があった。彼らは当然、あいさつした。
「あさって、来いよ!」
と言われたわけでもなかったが、結局、かの少年はこの地にやってきていた。
田沢青年はこの日の例会で、国鉄の運賃計算の方法を丁寧に話していた。
米河少年は、国鉄の運賃計算法を知らないわけではなかった。
しかし、田沢青年が話したのは、利用者相手の、時刻表を読んでそれに従って計算すればわかるレベルのものではなかった。彼は、国鉄側が距離ごとの運賃を算定するにあたっての計算法をレクチャーしたのである。
彼はこの日、同期の江本洋一青年と一緒にきた。彼も鉄研の会員で、同じく医学部医学科の1回生。岡山のA高校を卒業後、現役で入学していた。彼は鉄道もさることながら、バスにも興味を持っていた。田沢青年がいささか大柄であるのに対し、江本青年は背が高く、すらりとして、銀縁の眼鏡をかけていた。
後にO大の先輩でもある三角建設の専務まで務めた大宮哲郎氏は、江本青年と会って話したとき、「極めつけの紳士」と述べたそうだが、その雰囲気は、すでにこの頃からあった。
医学生らの横で、農学部2回生の国江和正氏は、少年相手に小ネタを出して知識をレクチャーしていた。
「つばめマークのC62があろうが。あれは何号機なら」
「2号機と18号機です」
少年はもちろん、つばめマークのある蒸気機関車がどの機関車であるか知っていた。
「それで、その2号機と18号機のつばめマークの違い、判るか?」
「いえ、わかりません。というか、そもそも、18号機の写真を見たことないもので」
それならしょうがないとばかり、国江氏は即席講義に入った。
「2号機は、知ってのとおり、つばめがまっすぐ飛んでいるだろう。これに対して18号機は、いささか下に向かって飛んでいるような形になっていた」
当時インターネットなどというものはなかった。まして小学生。本気で本を読み、文献などにあたったとしても、その情報量は知れている。まして、どこに行けばそれがあるかというのもわかり切っていない年齢。子ども向けの鉄道本は今以上に出回っていたが、そういう本には細かい知識などはそうそう載っていないもの。
彼がC62型18号機の写真を見たのは、のちにOBの石本秀一氏から見せられた鉄道ジャーナル1975年3月号に掲載されていた映画の写真からであった。
その頃彼は、すでに高校生になっていた。
「スカウト」されてやってきた鉄道少年は、こんな調子で、国江氏に限らず先輩たちからいろいろな知識を教わっていった。それは同時に、彼にとってはそれまで知らない世界を知っていくことでもある。彼の小学校は、当時文教地区として脚光を浴びつつあった。そんな場所だけに、鉄道好きな少年は彼の他にも数名いた。すでにして、米河少年の鉄道知識は、彼らが足元にも及ばぬほどのものを持ち合わせていた。
しかし、いささか天狗になりかけているこの少年も、ここに来れば圧倒的な「弱者」。大学生の中に入って小学生が「勝てる」ほど、甘い世界ではない。彼はこの日早速、鼻柱を大いにへし折られるところとなっていた。
しかし、彼はそれでへこたれるような少年ではなかった。
どんなスポーツでも、きちんとした指導者がつけばそれなりに上達するものである。鉄道趣味の世界でも、実はそれと似たようなところがあって、彼はこの環境のおかげで、さらに鉄道趣味人としての基礎を身につけられたと言っても過言ではないだろう。彼がこの場所で得たのは、単なる「知識」だけではない。物事にあたっていく上での基礎を、鉄道という趣味の場において思い切り鍛え上げられたわけである。
さて、その国江青年は、この日、というか大学祭の会場にも、ある「おもちゃ」を持ってきていた。
「ルービックキューブ」
この頃はやった、さいころ型を9分割して、それを縦や横に3つずつ回していって各面の色をバラバラにして、それを合わせていこうというもの。
コンピューターゲームがまだ黎明期で、ブロックインベーダーというものが喫茶店やゲームセンターのような場所に置かれていて、それに小銭を入れながら楽しんでいた人が多かった時代。このルービックキューブは、一つ買ってしまえば特に課金などもされず、手元で時間つぶしができるというシロモノだった。
もっとも、6面の色をすべて合わせるというのは、一度混ぜ込んでしまうと、もはや至難の業となる。当然かどうか論ずるまでもなく、これを合わせるのは素人には並大抵のものではない。もちろん、プロ級の人で、どんなものでも瞬く間に、とは言わないまでも、それなりの時間があれば合わせてしまうという人もいた。
ようやく6面中の1面かそこら合わせられたとしても、他の面はまだバラバラ。
しょうがない。そこでいったん、キューブをばらして、色を合わせなおして6面揃えるということをしていた人も、多かった。
国江さんはその日、少年にうんちくを傾けつつも、このキューブを縦に横に回して合わせようとしていた。もっとも、それにのめりこんでいるというわけでもなかった。話していたかと思えば、ちょっと思い立っていくつか回してみたり、それがほどほどになったら、また、しばらく机に置いたままにして、少年にうんちくを仕込んでみたり、同期の浜本氏や法学部の亀田氏相手に先日乗った列車の話をしてみたり。
米河君、ナハ21の種車は知っての通りナロネ21だろう。あれは座席を引き出せば横にもなれる。もともと、向かい合わせの座席を引出して寝台にしていたからな。それを、急行「だいせん」に乗って知り合ったおじさんと一緒にやって酒を飲んでいたら、車掌が来て、えらい怒られたで。
こんな裏話のようなことも、この団体の例会では時として出るもの。
鉄道少年は早速、社会の裏側とまではいわないにしても、そんなこぼれ話の洗礼を浴びていた。
それを浴びせていたのは、当時19歳になったばかりの平田基青年だった。
例会と言っても、いつも会の運営やありかた云々を正面切って話すばかりではない。いつもはおおむね、こんな調子で雑談会のような調子で進んでいくもの。
良い悪いといった問題ではなく、そもそもこういう場を設けたいがゆえにこのサークルが成り立っているようなところもあるのだ。
鉄道趣味というのは、本来一人でもできるもの。この会に来ていないが鉄道が好きなO大生も、少なからずいた。その一方で、鉄道がそれほど好きというわけでもないが、好きなものの一つということでこの会に来ていた人もいたほどである。
「鉄道研究会」と言ってみたところで、世間一般が想像する「マニア」ばかりが集っているわけでもない。
こうして、この日も例会は夕方近くまで続いていた。
会もたけなわ、時計の針が16時30分ごろになっていた。
少年は、17時過ぎには戻る旨をよつ葉園の事務所に伝えていた。まだしばらく、ここにいても大丈夫。
そんな折、学館こと学生会館の一部から歓声が上がった。
「お、すごいな」
よく見ると、国江青年の持つルービックキューブの6面が、今にもピタリと揃おうとしていた。すぐにそろえてもよかったのだろうが、それを彼は、自らの意思で待ったをかけていたのだ。
周りが注目する中、国江氏は、最後のひと回しをした。
正6面体の物体の各面の色が、きれいにそろった。
期せずして、周囲の驚嘆の声が沸き起こった。
国江氏の話では、このようにルービックキューブのすべての面がきれいにそろったのは、後にも先にもこのときだけだという。米河少年は、6面54個のパーツが各面ごとにきれいに色のそろったルービックキューブに目を凝らしていた。
翌週の土曜日も、米河少年は例会にやってきた。
この日は、彼を「スカウト」した石居晶氏も参加した。
かねて国江氏のルービックキューブの件を聞いていた石居氏は、2週間ぶりに会った小学生の鉄道少年が席を外したとき、横にいた1回生の平田青年に一言述べた。石居氏は少年に、飲み物を人数分買ってくるようにと、代金を言づけて自動販売機に向かわせていたのである。
「あの少年、鉄研にとっては、かなりの拾い物かもしれないな。ひょっと、何十年に一人の逸材のような気がしてきた・・・」
「私も、そんな気がします」
19歳の平田青年が、22歳の先輩の論評に答えた。
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