エピローグ
それから、朱鷺浜学園の生徒たちも無事魔力硬直から解放されたようだった。直春はそのまま邪悪様を背負って、家に帰った。
「なあ、ココ。一つ聞いていいか」
熟睡している邪悪様を自分の部屋のベッドに横たえたのち、彼はポケットの中の箱に尋ねた。
「大罪ってのは世界を大きく変える危険性があるから大罪なんだろう? だったら、実際に誰かがそれを犯して、それによって世界が大きく変わった場合、冥界や天界の偉いやつらはいったいどうするんだ?」
「そうですね……。考えられるのは、超局地的な事象の改変、すなわち、その大罪を『なかったこと』にすることでしょうか」
「そうか。そうだよな……」
直春は、ようやく五十年前の邪悪様がなぜ自分の情報を封印したのかわかった気がした。大罪というのは、未来の誰かによって「なかったこと」にされてしまう可能性のあることだ。彼女はそれを恐れたのだろう。そう、彼女は「たまちゃん」に生きていてほしかったのだ。だから、自分のやったことが誰かに上書きされないように自分の情報ごと大罪を隠ぺいしたのではないだろうか。
彼女の「たまちゃん」は不幸にも夭折した。だが、その孫である自分はここにいる。記憶を失い、子供になってしまった彼女とめぐりあって。直春はその縁をとても尊いものに感じた。
やがてそのまま夕暮れ時になり、約束通りファラルーシェの霊体が家にやってきた。直春は彼女に謝らなければならないと思った。邪悪様を引き渡す気はもうさらさらなかったから。
だが、庭先で会うなり、彼女は開口一番、こう言った。
「残念じゃが、姉様は、ぬしに預けるほかなさそうじゃ」
話を聞くと、天界の誰も人間界に
「そうか。じゃあしょうがないな」
直春はいったんそう答えたものの、なんとなくそれが嘘ではないかと思った。いくらなんでも話が早すぎる。
「ところでお前、今日の昼間、どこにいた?」
ためしに聞いてみると、ファラルーシェはひどく狼狽したようだった。
「わ、わらわはちゃんと天界のやんごとなき方々と謁見しておったぞ! ほんとじゃぞ!」
「ああ、わかったよ。信じるよ」
きっと学校に来てたんだな。それで、自分達のやりとりを見てたのではないだろうか。直春は直感的に悟った。
「で、では、そういうことでの。わらわはもう行くのじゃ」
ファラルーシェは逃げるように夕暮れの空へと飛び立った。
「よかったら、また来いよ。邪悪様に会いに」
直春はその去りゆく姿に向けて叫んだ。別れの挨拶のつもりだった。
だが、そのとたん、彼女はこっちに引き返してきた。
「よいのかえ? 本当によいのかえ? また姉様に会いに来ても?」
彼女は直春の周りをふらふら飛び回った。とても幸せそうな、満面の笑顔で。
「いいよ。いくらでも会いに来てくれ」
直春は笑いながら言った。
やがて、すっかりあたりが暗くなったころ、邪悪様は目を覚ました。起きて早々に彼女が言ったことは「おなかがすいた」だった。直春はいつかのときのように、彼女にフレンチトーストを作ってやった。そして居間のローテーブルに向かい合って座って一緒に食べた。
邪悪様はやはり前と同じく、すごく美味しそうにそれをたいらげた。あっという間に彼女の皿は空になってしまった。
「ねえ、ナオ、ぼくってばすごく悪いやつなんだよ、知ってた?」
邪悪様は直春の皿の上の手つかずのフレンチトーストをじっと見つめながら言った。
「ああ、知ってる。お前は悪いやつだよな」
直春はそれを腕で囲みガードした。
「ナオはぼくの家来だよね?」
「家来だからって、なんでも言うことを聞くとは限らないがな」
「ぼく、悪いことしなくちゃいけないんだよ。邪悪様だから。人のものを取ったりなんて、平気でやっちゃうやつなんだ」
邪悪様はそこでご自慢の「しょぼい念力」を使ったようだった。にわかに直春の皿のフレンチトーストが宙に浮いた。そうはさせるか。直春はあわててそれを手でつかみ、自分の皿に戻した。
「いいか、邪悪様。泥棒だけがお前の悪事じゃない。というか、今さっき、お前は俺の目の前で、これでもかというぐらい悪事を働いたぞ?」
「さっき?」
邪悪様は不思議そうに小首を傾げた。そのストレートの銀色の長い髪がさらりと横に流れた。
「お前は今さっき、俺の目の前でフレンチトーストを美味しそうに食べただろう」
「うん。すごく美味しかったよ」
「それだ! 美味しいものを美味しく食べる。すなわち美食だ。それはキリスト教のプロテスタントにおいては堕落だ。悪いことなんだよ」
「ほんと? さっきのぼく、すごく悪かった? 邪悪だった?」
邪悪様は目をキラキラ輝かせた。自分の悪行を知って大変ご満悦の様子だ。よし、ここはさらにたたみかけるか。
「そうだ、それだけじゃない。キリスト教には七つの大罪ってものがあってな。そのうちの二つ、暴食と強欲はまさに今のお前にぴったり当てはまる。ああ、お前はなんて、食いしん坊のよくばりの悪いやつなんだろう」
直春は大げさなジェスチャーを交えて言った。
「へえ。そっか、ぼく、やっぱり悪いやつなんだ」
邪悪様は直春に悪を認定されて、また満足したようだった。楽しそうに笑った。
「そういうわけだ。お前の今日の悪のノルマは無事達成したわけで、もう人のものを盗む必要はないな。よし、これは俺のものだ」
「えー」
邪悪様の不満そうな声は、直春には実に痛快だった。窃盗というとてつもない巨悪を阻止できたのだから。彼女が物欲しそうなまなざしで見ている前で、悠然とフレンチトーストを口に運ぶ――と、そこで、彼はふと手を止めた。
そうだ、これ……。
いったん席を立ち、キッチンカウンターの上に置いていたスマフォを取って素早く戻った。そして、それで自分の皿のフレンチトーストを撮影した。
「ナオ、何してるの?」
「母さんに送るんだ、写真」
スマフォをいじり、母のアドレスを探す。
「これさ、昔母さんに作り方教わったんだぜ」
「ほんと? ナオのお母さんはフレンチトーストの先生なんだ?」
「料理はそれしか作れないけどな」
直春は笑い、写真に短文を添えて母のスマフォに送信した。
そうだ、例え仕事が忙しくてもメールのやり取りぐらいはできるはずだ。父は他界したが母はそうではない。お互い、元気なのだ。これから少しずつ歩み寄っていくことはできるはずだ……。彼はメールが無事に送られたのを確認すると、スマフォを置き、母直伝のフレンチトーストを食べた。
フレンチトーストを食べて、後片付けを終えると、彼は邪悪様を父の書斎に案内した。
「この部屋、今日からお前が使えよ」
「ここ……?」
邪悪様は埃っぽい部屋を見回して、本がぎっしり詰まった棚のところで目を止め、困った顔をした。「ぼく、こんなに本読めないよ」直春は笑った。
「もちろん、このまんまってわけじゃない。ここは今から掃除して片づけるんだ。お前も手伝えよ」
「う、うん……」
邪悪様はなんだか不安そうな顔をしている。
「どうしたんだよ? 自分の部屋だぞ、うれしくないのか?」
「だって……それって、今日からぼくはここで寝るってことでしょ?」
「もちろんだ」
「じゃあ、いい。ぼく、ここ使わない……」
邪悪様はうつむいて、直春のズボンの生地をぎゅっと握った。直春はすぐに彼女の考えてることを察した。
「そんなに一人で寝るのがいやか?」
「べ、別に……」
「どうしても眠れないときは、俺のところに来てもいいよ」
「ほんと?」
とたんに、邪悪様は顔を上げた。とても明るい表情になって。直春は「ああ」と、うなずき、その頭を撫でた。目と目が合うと、お互い自然と笑みがこぼれた。
それから、二人はさっそくその部屋の片付けと掃除を始めた。邪悪様はやはりちょっとめんどくさそうな顔をしていた。
「この部屋はずっと手つかずだったんだ」
直春は手を動かしながら邪悪様に言った。
「でも、本当はもっと早く片付けるべきだったんだ。母さんのためにも」
「ナオのお母さんのため?」
「ああ。俺、ようやくわかった気がするんだ。父さんが死んで、どうして母さんの仕事が急に忙しくなったのか。どうして母さんがあまり家に帰ってこなくなったのか……。母さんはきっと、見たくなかったんだよ。父さんがいないこの家を」
そう、俺と同じだ……。直春はかつて父の死を受け入れられなかった幼い自分を思い出した。そして、この部屋をずっと放置していたことも。彼は怖かった。この部屋の扉を開けて、そこに父がいないという事実を確認することが。だから、ずっとここには近づかないようにしていた。
母も同じだ。家に帰って、そこに父がいないという事実を確認することが怖かったのではないだろうか。
「ようは、似たもの親子ってことかな」
直春はゆるく笑った。
「でも、それじゃダメなんだよ。父さんが死んだことを、ここにいないってことを当たり前のことにしなきゃいけない。そうしないと、俺達は前に進めない。だから――」
「ここを片づけるの?」
「ああ。父さんが死んだのは悲しいことだ。それは何をやったって俺の中からは消えないだろう。でも、俺はもう逃げない。悲しみも、ほかのどんな感情も、ちゃんと向き合って、自分の一部にしていくんだ」
書斎には父の使っていた道具、生きた証があふれていた。彼はそれらをゆっくりと箱に納めて行った。
「大事なのは、向き合っていくことだ。対話していくことなんだ。自分自身と、そして、誰かと……」
「誰かと?」
「そう、誰だろうな?」
直春は邪悪様に微笑みかけた。彼女は雑巾で窓際の椅子を拭いていた。中腰の姿勢で、小さい体がよりいっそう小さく見えた。
こいつは、鳥ならまだ雛ってところか。
直春はもう、自分のもう一つの間違いに気づいていた。彼女は、幼いころに逃がしたあのセキレイとは違う。あれは大人の鳥だった。一人で生きていける存在だった。でも、邪悪様は子供だ。まだ一人では生きていけない、誰かがそばにいなければならない。
そして、邪悪様にとってそれは自分でなくてはならないのだ。彼が彼女を必要としているのと同じように……。
「邪悪様、俺達はまだガキだ。だからさ、これから一緒に少しずつ大人になって行こうぜ」
「うん、これからも一緒に悪いことしようね!」
邪悪様は楽しそうに笑った。
「……悪いことは必要なのか?」
これじゃ先が思いやられるな。直春は苦笑いした。
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