第12話 最悪の臭い②
「来るな! 来るなぁッ!」
「木地、落ち着いて。首にタオル巻くだけだって」
木地が上半身だけ起こしながら、後ずさりする。
錯乱状態? やっぱり重傷で内出血とかがあったのか?
傷口を注意深く観察してみる。血は少しも流れていない。ただ大きなホクロのように穴だけがぽっかり空いている。中が覗けそうだったが、気持ち悪さと恐怖で止めた。
その傷口から、音が聞こえる。何かが漏れている音。
透明な何かが空中に流れ出ているような。そしてそれは……あの悪臭とは明らかに違い、濃い血の匂いとしか思えなかった。
木地は操舵室の壁に背中が触れると、そこを割って逃げようとしたのか頭をごんごん強く打ち付け始めた。
「来るなッ! ああアアアッ!」
「傷口開くよ!? ほら、行かないから、タオル自分で使って……」
「違ううぅッ、鮫が、鮫じゃない! 眼も口もぜんぶ――」
声が消えた。壁に頭をぶつける音も途切れる。
悪夢か、あるいは冗談のように……木地の首から上は無くなっていた。
横向きに壁へもたれかかり、わざわざ見せつけるように首の断面を晒している。骨が露出していて、肉も血管も見えた。俺が声をあげたり、パニックになっていないのは、あまりに現実離れしていて、作り物か、そういう映画みたいに思えてしまっているからだろう。強烈な違和感がある。
血がまったく出ていないなんて、異常だ。
さっきの首の傷も、よく考えれば絶対におかしい……!
首の断面、複数個所から空気の抜ける音がする。
肺からは出てない感じ。肺に入っている空気よりもっと多量の何か……空気じゃないなら……何だ? それ以上の何かが、漏れているのは確かだ。
「お、おい……? 何だよ、これ」
「近付かないで! まだ危ないかも――」
「見えない……のに、たくさんの血の匂い……?」
「木地ぃ!? どこ……?」
眼は離していなかったはずなのに、木地の胴体も消えてしまった。男も辺りを見回している。ふと足元に、靴が一つ転がっていた。この
肉を噛み千切る音がする。漂う悪臭が、
「うわあああッ!」
はっとして声の方を向くと、近くで男が手鉤を振り回している。空に向かって何度も何度も。よく観察すると、血の霧みたいなものが男の手鉤にかき混ぜられ、散ってはまた集まってを繰り返している。その内に男と目が合った。ついさっき話してた頭の良さそうな顔は、見えない恐怖に歪んでいた。
「ひひっ、ははははは!」
「わっ!」
いきなり手鉤を向きが変わり、当たりそうになるところを避けた。ギロっと正気でない目がこちらを向いている。手鉤を握りしめ、じりじり距離を詰めて来る……背中側に甲板の柵が触れた。もう後ろには下がれない!
大きく振りかぶった攻撃がくる。
手鉤は身体をのけ反らせたライフジャケットをかすめ、すっぽ抜けて飛んでいき――海に沈む音がした。よし! あとはこの人を落ち着かせてやれば!
足がふわりと浮いた。
船が視界から消え、空が見えて。冷たい水と泡に包まれる。
う、海に落ちた? そうか、避けるとき柵を越えたから……
「ぷはっ……ぷあっ……」
船を見ると、久万倉さんが海から上がって転がり込むのが見えた。
トウコちゃんは? ケガは大丈夫なのか? どこに?
横や後ろから来る波で視界が揺れる。海の谷にいるみたいに、ほんの数メートル先も見えない。近くを確認しようとするだけで身体が沈み込む。
「ゲホッ……ぐっ、トウコちゃん……!」
頭から波をかぶり、海水でむせる。ライフジャケットはいつの間にか外れていた。着水の衝撃か、手鉤を避けた時に繋ぎ目が壊されたのか……ああ、くそ! どこだよ、音も声も聞こえねえよ!
船のエンジンが鳴り響き、加速し始めた。
揺らいだ波をこっちにおっ被せ、船が遠ざかっていく。
おい、嘘だろ……
俺たちを助けないで、置き去りにしたのか?
それじゃ見殺しと変わらないじゃないか!
「……待って、助けて……! くそッ!」
海面をばんばん叩く。
音と声に気がつけば、トウコちゃんも合図を出すだろう。
必死で辺りを探る。視界の端にライフジャケットが浮かんでいるのが確認できた。そしてその先に……ただよう白い何かが見えた。波のしぶきじゃない。
近付こうと手足でもがく。
学校のプールの端から端くらいの距離が、なかなか縮まらない。
もう少し。もう少しだから、無事でいてくれ。
たぶん帽子が波に揺られてるんだ。
さっきから反応がないのも、声や音に気付かないのも、ただの帽子なんだから無理もない。きっと近くにトウコちゃんがいる。ライフジャケットにしがみ付いて、二人で救助を待つ。漁船でも観覧船でも、いくらでも行き交うはず。
「……あ」
思わず呟いたとき、横波をまともに受けた。浮かび上がろうとしたが、水が鼻と口から入ってくる。夢中で吐き出して呼吸をしようとしたが、息もぜんぶ泡になり海面に上がっていく。
あれは、トウコちゃんだった。
顔を海に浸けたまま、少しも動かない姿。そして、さっき沈んでいったのが見えた。いまの自分と同じように。だめか。もう――
薄れていく視界に、何かがいる。
太陽の光が差し込む海中、その下に、何かが泳いでいた。
クジラ……? いや、もっと形が、歯が……鮫?
それは自分の足をなめるように絡みついてくる。
ねばつきすら感じる悪臭をこすりつけ、
『テケリ……リ……テケリ・リ!』
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