第2話 鮫が来る




「船が出せない? ……何でですか?」

「さっき説明した通り。エンジントラブルだ」


 屈強な男がみじかく答える。

 誰がどう見ても漁師って思う日焼けした顔と腕っぷし。数人いたツアー関係者の中で、こいつを矢面に出したのは余計な追及を避ける為なんじゃないかってくらいの人選だ。

 そしてそれ以上の説明はないと言うように、口を閉じた。


 集まったツアー参加者も、どう言葉を返そうか困っている。

 周囲を見回す。港のすぐ近くの魚市場なので、周りに船はたくさんあるようように思う。ほとんどが漁船だが、観光用と思われる大型の船も停泊していて、琴吹のさびれた港とはえらい違いだ。 


「替わりの船は……?」

「他に動かせる船はあるが、装備が違う。クジラを見るには向かん」

「ええと、じゃあツアーは中止ってことですか?」

「……」


 おい。黙るな。

 それを判断出来る人……責任者はどうした?


 近くには船まで誘導するはずだった乗組員がいて、俺と同じ参加客が数名きつく何か言い寄っている。この屈強な男よりは話しやすいと判断したのだろう。必要なら俺だってそうする。

 ……聞き耳を立てると、どうやら先にネットとかで入金した人たちみたいで、その払い戻しも出来ない、ということらしかった。そりゃあ口調も荒くなるワケだ。


 いい加減過ぎないか? まだ爺ちゃんちの近所の駄菓子屋の方がましだぞ。あそこのオバちゃんお釣りの計算が怪しいから、100円単位でしか買えないんだけど。


 船も出せない。お金も返せないじゃ納得できないだろうな。

 俺は参加時に渡すスタイルだから助かった。


 ううん、思った以上にいい加減だな。

 あとでクレームの電話でも入れてやるか? 手元にあるパンフレットで連絡先はわかる。ええと代表者の名前は……巳海みうみ――


「朝からどうした? もめ事?」

「あ、巳海さんっ!」


 客に詰め寄られていた男が、情けない声を出す。

 待ちに待った助け船、ってわけではないらしい。気付かれたくなかった、そんな怯えのような色がチラっと見えた気がした。 

 魚市場の上へと続く階段から姿を現した巳海サン、つまりこのツアーの責任者は……パッと見た感じ若い。三十代半ばくらいか。田舎よりは都会にいそうな服装。少なくとも漁師って感じじゃないな。竿や網よりも、携帯握って遊んでるのが似合いそうだ。


「鯨のツアーだっけ、出発の時間過ぎてない? 何してるの?」

「み、巳海さん。それがですね、ちょっと事情がありまして」

「ふぅん……根津は? 朝も挨拶に来なかったけど」


 にこにこと愛想よく笑っているが、ツアー関係者たちの表情は硬い。かなり年下の男を恐れているみたいな印象だ。魚市場の上階から来たってことは、それなりに偉い人らしい……それにしちゃ苦労からは縁遠い遊び人にしか見えないが。


 この地域の漁業権を取り仕切る網元の血縁か、大地主、町長らへんの息子って辺り? どちらにしても関わり合いは避けたいタイプ、とても好きになれそうにないな。


「前代未聞だぞ。この俺に不始末を押し付けるなんて」

「も、申し訳ありません。根津にも連絡が付きしだい、組合の方に顔出させますんで、どうか……」

「いい、いい。だが次は無いぞ。そして思い出せ。不老ヶ谷で巳海家に逆らうと、身をもって知りたくはないよなぁ?」

 

 小声だが、特に隠すつもりはないらしい。他の客には届いてないが、屈強な男のそばにいたからほぼ丸聞こえだ。権力を振りかざす偉そうな態度で、いくつか指示を飛ばしていた。






 *  *






「た、大変遅れまして申し訳ありません。出航予定だった船は使えませんが、替わりにあちらの豪華客船でツアーを行います。つきましては再び参加登録をいたしますので、受付をする方はこちらへ来てください!」


 関係者の一人、軽薄そうな男が声をあげて誘導する素振りを見せる。それを眺めてから巳海サンはやれやれと肩をすくめ、魚市場の階段を登っていった。

 まあ、ツアーが無事出来るんなら良かった。ホエールウオッチング終わったあとに感謝の一つは言ってやってもいいか。


「ここにお名前を。大型客船を使うので、追加料金が掛かります。5千円プラスになりますがよろしいでしょうか?」

「え!? パンフレットのどこにも書いてませんよ? そんなこと……参加の保証は最低限の約束ではないのですか?」

「利用規約では『船が出て、クジラに遭遇しなかった場合、全額返金』としか記載していません。言いたいことは分かりますがね、上の人が決めた事ですんで」


 料金を支払う気がないと判断されたのか、軽薄そうな男は後ろに並んでいる人に視線を向けた。列から弾かれ、もうツアー関係者の誰も自分を見ていない。


 なんだ……なんだってんだ……!?

 そっちのミスだろ? そりゃあ別の船出すのにだって金は掛かるのは分かるよ。でも客に持たせるか普通?

 さすがに参加費とほぼ同額の追加料金は出せない。ツアーだけが目的じゃないし、友だちと遊ぶのに困るようになれば、何のためにバイトして稼いだか分からなくなる。


 ……みやげ話は、予想からかなり外れたモンになりそうだ。


 とぼとぼと近くの柱に寄りかかって座る。数メートル外に歩けば真夏の朝の陽気ですでに暑そうだが、市場のコンクリートはひんやりしていて座りごごちは悪くない。港の雰囲気は琴吹とそう変わらず、嗅ぎなれた魚の匂いがした。


「根津は……まだ……連絡が……?」

「昨日の夜は……酒を……でもいつもの量……」

「おかしい……金の絡むことで……あいつが休むワケは……」


 さっきの屈強な漁師が、誰かと話しているのが聞こえた。

 根津? そういや巳海サンもそんな名前を口にしてたな。このツアーで使う船の管理者なんだろか? そもそもエンジントラブルって理由もちょっと疑わしい。船の調子なんて乗る人にとっちゃ生命線だ。まさに命を預ける乗り物。大事にしない人を


「事故……でも、まさか……まだ猶予は……」

フカが連れて行ったのかもしれん」

「お、俺たちが……に……なる……ことは……」

「これ以上機嫌を損ねれば、あり得る話だ」

「それってヤバい……巳海さんに……相談……」


 フカ……?

 その単語を聞いた時、ぞわっと寒気が走った。

 人肌に温まったコンクリートがやけに冷たく感じる。


『ハル! 澪ちゃん! 言うこと聞かない悪い子には、フカが来るからね!』


 ……あれは、サメ映画を小さい時に観てからのトラウマだ。

 あの独特な音とテレビ画面に迫る大口。

 俺と兄ちゃんに付いてきた澪も、その言葉を聞くたびに泣きべそかいてたっけ。あんまり泣くもんだからすっかり甘やかす癖がついた気がする。

 

 ただ死んだばぁちゃんが、それよりもずっと前に言ってたんだ。一人でいる時、夕方遅く帰って来る時、約束を守らなかった時。『フカが来るよ』って。母さんはそれを真似ただけ。

 琴吹じゃ悪ガキを言い聞かせるでしかない。ここ不老ヶ谷でも同じなのか? でも、いま聞いた感じ……何か、違う……もっと別の―― 




 しばらく考えていると、並んでいた集団が歩き出した。大型客船に乗り込むんだろう。俺は無言で見送りながら昔の記憶を辿っていた。何度思い返してみても、さっきの呟きとサメ映画、家族の言葉は少しも繋がらない。




 それが逆に薄気味悪かった。




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