第49話 作戦開始
日中は屋敷中を多くの使用人が忙しなくいったりきたりきているが、マダムの夕餉が終わるとその慌ただしさは少しだけなりをひそめる。
日もすっかり落ちて空が闇をまとい始めた頃、レティリエはそっと地下におりると厨房を覗いた。マダムの夕食が終わった為か、厨房は人も減っており、後片付けの為にほんの数人が動いているだけだった。
レティリエはメイドに声をかけて、厨房の片隅を開けてもらった。エプロンを身につけ、睡眠薬の小瓶をポケットにこっそりと忍ばせる。そのまま何食わぬ顔でお菓子を焼き始めた。以前にコーマックに菓子を振る舞い、好評だったことから、材料は好き勝手に使って良いと言われている。慣れた手つきで生地を作ると、隠し持っていた睡眠薬をこっそりと混ぜた。
睡眠薬をいれる瞬間はさすがに手が震えた。もし失敗したらと思うと緊張で心臓が激しく脈うつ。不安を打ち消すように首をふるふると振って深呼吸をすると、ぐつぐつと煮込まれているスープの大鍋が目に入った。
使用人達が夕食をとるのは、主人が食べ終わった後になる。このスープもこれから使用人達に振る舞われるのだろう。美味しそうな匂いと共に立ち上る白い湯気を見ているうちに、レティリエの頭の中でひらめくものがあった。
振り返ってそっと厨房を見回す。マダムの夕飯の後片付けが終わった為か、厨房には次の日の朝食の準備に取りかかるメイドが二人いるだけだ。彼女達はしっかりと手を動かしているものの、先程からぺちゃくちゃとおしゃべりに興じている。もうすぐで一日の仕事を終えられると言う安堵感からか、なんとなく気持ちが浮わついている様子だった。
レティリエは意を決すると、菓子を焼き窯にいれるフリをしながらスープの大鍋に近づき、残りの睡眠薬を全ていれた。透明の液体がスープと混ざりあい、その姿を同化させていく。
これでもう後戻りはできなくなった。
レティリエは大鍋の湯気を見ながら、空っぽになった小瓶をぎゅっと握りしめた。
生地が焼き上がると、マダムに食べてもらいやすいよう、クリームやフルーツをふんだんに使って可愛らしく装飾していく。最後にこれを銀盆にのせれば完成だ。
レティリエはお菓子を銀盆の上にのせると、落とさないように気を付けながら自分の部屋へ戻った。先程作っておいた生花の飾りがついたドレスと、銀盆にのせたお菓子を見比べる。これで必要なものは全て揃った。
レティリエは大きく深呼吸をするとメイドを呼んだ。疑われないようになるべく他者との関わりを持ちたくは無かったが、ドレスは自分で着られないのだから仕方がない。部屋に入ってきたメイドは、美しい生花の花飾りで彩られたドレスを見て目を丸くした。
「まぁこれはご自身で作られたのですか? 随分と華やかなドレスでございますね」
「ええ、ありがとう。今度コーマック様にお呼ばれして頂いているので、一度奥様にドレスを見ていただこうと思いましたの」
にこりと笑いながらしれっと嘘をつく。メイドは特に不審がる様子もなく、「それはようございます」と言っていつも通りにドレスを着せつけてくれた。
最後に鏡の前に立ち、気合いをいれる意味で頬をパチンと叩くと、菓子を持ってマダムの部屋へ向かった。
マダムの部屋は屋敷の最上階にある。金の装飾が施された扉を目の前にして、レティリエは息を整える。
この部屋に入った瞬間から、狼達の逃亡劇は始まるのだ。数時間後に狼がこの屋敷から逃げているかどうかは自分にかかっている。
レティリエは深呼吸をすると、コンコンと扉をノックした。頭を下げて待っていると、マダムから「入りなさい」と声がかかる。お菓子を落とさないようにそっと扉を開けて中に入ると、湯浴み前なのかマダムはまだ身仕度を崩さないまま部屋でくつろいでいた。
「あら、レティリエじゃないの。こんな時間に何かようかしら?」
ソファに座ったマダムが目を丸くする。レティリエは膝を軽く折って控えめにお辞儀をすると、部屋の中に足を踏み入れた。
「こんばんは、奥様。こんな時間に申し訳ありません。実は日頃お世話になっている奥様にお礼の気持ちをお伝えしたくて、お菓子を作ってみましたの。宜しければ食べて頂けないでしょうか」
「あら、嬉しい申し出だけど今は要らないわ。また今度にしてちょうだい」
マダムの返しに冷や汗をかく。出鼻から挫かれるとは幸先が悪い。だが、ここでなんとしてもマダムにお菓子を食べてもらわないといけないのだ。レティリエは必死に頭を働かせる。
「……さようでございますか。実は奥様に気に入って頂けましたら、今度コーマック様がいらっしゃった時にお作り差し上げようと思っておりましたの……ですが、またの機会にさせて頂きますわ」
そう言って辞去する素振りを見せると、マダムが「待って」と引き留めた。
「コーマック様にお出しするものなの? そうね、それならば少しだけ味見させてもらうわ」
マダムが手のひらを返して菓子に手を伸ばす。先日、思いがけない形で追加の資金を出してもらったことからも、コーマックにとって加点になる要素は無碍にできないのだろう。彼の名前を出せばマダムの心持ちを変えられるという読みがあたったことに、内心で安堵のため息をつく。コーマックの名前は、マダムにとって今や切り札も同然だ。
マダムが菓子をひとつ取り、まじまじと眺める。レティリエが見つめる中、マダムは菓子をおもむろに口にいれた。
「そうね、味は申し分ないわ。ただ、紅茶と一緒に食べるならもう少し甘味を強くしてもいいわね。でもまぁ、この味ならばお出ししても問題ないでしょう」
「わかりました、ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げてお礼を言う。マダムが菓子を食べたのはしっかり見届けた。あとは効果が出るまで待つだけだ。
レティリエは銀盆を机に置くと、ドレスを両手で持ち上げた。
「奥様、実はドレスに花飾りをつけてみましたの。今後は衣装にこのような趣向を凝らしても良いかと思いまして」
「そうね、良い考えだわ。今度から生花も手配するようにギャスパーに言っておいて」
「はい、かしこまりました」
話しているうちに、マダムの目が少しずつ虚ろになっていくのがわかった。思っていたよりも効き目が早い。「少し気分が悪いわ」と呟くマダムの体に、レティリエは優しく手を添えた。
「奥様もお疲れでいらっしゃいますのね。どうぞ横になってくださいな」
「ええそうね。少し休ませてもらうわ」
マダムはそう言うと豪奢なソファに身をかたむけ、そのまま目を閉じた。
「奥様、ご気分はいかがですか?」
マダムの肩に手を置き、軽く揺すってみる。だが返事は無い。
カクンと首がおちたのを見ると、深い眠りに入ったのだろう。レティリエは音を立てないように静かにマダムの側を離れると、部屋をくるりと見回した。
マダムの部屋はどの部屋よりも豪奢で広かった。金細工が贅沢に使われたソファや飾り棚が置かれており、派手好きなマダムらしいきらびやかな部屋だった。ここで檻の鍵を見つけなければならない。レティリエは物音を立てないように部屋を探し始めた。
試しに文机の周りを見てみる。羽ペンや紋章が置いてある机の上に鍵らしきものは置かれていない。引き出しを覗いてみても同様だった。飾り棚や引き戸、果ては食器棚まで覗いてみたが、鍵は見当たらなかった。
焦燥感がレティリエの心を支配していく。もしかして鍵は全てギャスパーが管理をしているのかもしれない。そうなればまた一から作戦を練らなければならないのだ。レティリエの頬に冷たい汗が流れる。
(落ち着くのよ、レティリエ……鍵は必ずここにあるはずだわ)
焦る気持ちをなんとか落ち着け、頭を冷静にして考える。ああ見えてマダムはかなり慎重な性格だ。ギャスパーに鍵を渡していたとしても、必ず予備の鍵を用意してあるに違いない。レティリエは自分を奮い立たせながらなおも探し続けた。
(そういえば……この部屋にはベッドがないのね)
部屋中を歩き回っているうちに、マダムの部屋に寝台がないことに気がついた。不思議に思いながらなおも歩を進めていると、レティリエのドレスの裾が触れたのか、天井からひかれているカーテンがふわっと波打つ。一瞬だけだったが、カーテンの向こうに見えたのは、外ではなく室内だった。
近づいてそっとカーテンをめくってみると、そこにはベッドと小さな袖机、化粧台や箪笥などが置いてある部屋だった。おそらくマダムの寝室だろう。
マダムの部屋は、カーテンを仕切りにして二つの空間に分かれているのだ。
扉を開けてすぐは生活空間になっており、カーテンの向こう側はマダムのプライベート空間になっているらしかった。
レティリエの目がベッドの側に置いてある小さな袖机に吸い寄せられる。引き出しを開けると、中には複数の鍵束が入っていた。おそらく屋敷中の鍵がここに集められているのだろう。
レティリエは心を落ち着かせながら、目をつむって鍵の形状を思い出す。グレイルを檻から出すときに一回触れたきりだったが、それほど大きくは無かったはずだ。音を立てないように慎重に鍵束を取り出していく。最後に取り出した中に、見覚えのある鍵を見つけた。ちょうどレティリエの手より少し小さいくらいのサイズの鍵が四つ連なっている鍵束だ。鍵を通す輪の部分が複雑な形をしているその鍵束は、まさしくレティリエがグレイルの檻を開けるときに使ったものだった。この中で、特に輪の部分が大きいものが狼達の檻の鍵だったことを思い出す。
レティリエは鍵束をドレスの胸元に隠し入れると、静かにマダムの部屋を出ていった。
とうとう檻の鍵を手にいれた。レティリエは早鐘のようにうつ心臓を押さえながら自分の部屋に戻る。コーマックからもらった香水を一瓶掴むと、大急ぎで地下へ下りていった。
まず、狼達の脱出口となる使用人の通路を確認する。通路は灯りがなく、真っ暗で何も見えなかった。だが、レティリエは以前に来た時の記憶をたどりながら手探りでなんとか奥まで進む。
突き当たりの扉に手をかけると、扉は簡単に開いた。使用人一人一人に鍵を手渡しているわけではないだろうが、念のために確認しておくことにこしたことはない。戻る際に、一定の距離で廊下に香水をふりかけておくことは忘れなかった。
使用人の通路から出ると、狼達が囚われている部屋の扉の前に立つ。とうとう今から狼達の逃亡劇が始まるのだ。と同時に、それはグレイルとの別れを意味している。マダムを陥れることをしたのだ。殺されるのは確実だろう。
だが、レティリエはとっくに覚悟を決めていた。もう何が起きても悔いはない。例えこれが今生の別れになったとしても。
レティリエは太ももに巻いてあるペンダントを手に取り、じっと見つめる。
(グレイル……今までありがとう。あなたに会えて本当に良かった)
目を伏せ、そっとペンダントにキスをする。桃色の石が灯りに反射して、微かに煌めいた。
まるで泣いているかのようだった。
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