第14話 生還
何かに包み込まれる様な優しい体感と、頬を撫でるくすぐったい感触に目を覚まし、レティリエはそっと目を開けた。洞穴の外から射し込んでくる白い光を感じ、朝が訪れたことを知る。
起き上がろうとして、目の前にあるのが黒の毛皮ではなく、厚い胸板であることに気づいた。ぎょっとして横になったままこわごわ顔をあげると、可笑しそうに笑うグレイルの金色の目と視線があった。
「!!?!」
驚きと恥ずかしさが一度に押し寄せ、パクパクと口を動かすだけで声が出ない。
慌ててグレイルの体から手を離し、視線をそらして両手を胸の前で握りしめた。心臓の音がうるさいくらいに響いている。顔が熱くて熱くて何も考えられない。
なぜか、レティリエはグレイルの腕の中で抱え込まれるように寝ていたのだった。
「どっどうして……? だってずっと狼の姿だったじゃないの……」
蚊が泣くような声で言うと、グレイルはニヤリと笑った。
「さあね。俺も知らないうちに人の姿になってたみたいだ。まぁ別に不都合はないし敢えて狼の姿にならなくてもいいかなと思ってさ」
「でも、私あなたの背中で寝てたはずなのに……!」
ずっと狼の姿で動かないグレイルに対して、少しだけ気が大きくなっていたのは事実だ。それでもグレイルの懐に飛び込むような大胆な行動にでることは無かったと思う。
昨日は彼の背中を撫でているうちに眠くなり、そのままもたれ掛かるようにして寝てしまったのだが、それならば自分は背中側にいるはずだった。
グレイルは「さあどうだったかな」ととぼけた後、
「ああでも、体の向きは変えさせてもらったよ」
そう言っていたずらっぽく笑った。
二人して起き上がり、簡単に身支度を整える。
グレイルは久方ぶりに動かす四肢の感触を確かめるように、腕や足を曲げたり伸ばしたりしてみた。長いこと動かなかったが為に関節は強張っていたが、その他は特に問題は無さそうだ。日が立てば徐々に感覚を取り戻していくだろう。
グレイルは一通り体の調子を確認すると、自分に背を向けてソワソワと髪を整えているレティリエを見た。自分が今生きているのは彼女のお陰だ。
銀色のふわふわとした髪の毛と尻尾を見て、じんわりと心が温かい気持ちになった。
グレイルが目を覚ましたのは、レティリエが起きるほんの少し前だった。
外から差し込む朝の強い光を浴びて長い眠りから覚め、グレイルはそっと目を開けた。もうずっと悪夢を見ていたかのように苦しい時間だった。一先ず熱は下がった様だが、長時間続いた高熱のせいでまだ頭が殴られた様に痛い。
グレイルは身動ぎし、背中にかかる重みと体温に気づいた。見ると、レティリエが自分に覆い被さる様にして眠っている。グレイルはほぼ無意識のうちに人の形に姿を変えた。狼になれない彼女が変に意識をしない様、幼い頃からレティリエと一緒にいる時は人の姿でいる癖がついている。
彼女を起こさないようにゆっくり体の向きを変えると、そのまま滑り落ちる形ですっぽりとグレイルの胸の中に収まった。レティリエは微かに身動ぎしたが、目を覚ますことなくそのまま手を伸ばしてグレイルの胸にしがみついた。
グレイルは、自分の胸で眠るレティリエをじっと見つめた。
ふわふわとした白銀の髪の毛の中に、今はペタンと垂れている狼の耳。伏せられた目は長い睫毛に彩られて白い肌に影を落としている。幼い頃から見てきた幼馴染みの姿だ。
スウスウと気持ち良さそうに寝息を立てて眠る彼女は、あどけない子供の様だった。すっかり安心しきった彼女の様子に、グレイルは幼い頃を思い出して微笑む。
つい先程まで死の淵で闘っていた恐怖が嘘の様な優しい光景に、グレイルは自分が本当に生きているのかわからなくなってきた。もしかするとここは既に天国なのかもしれない……。
レティリエの体を抱き締め、ふわふわの髪の毛に顔を埋める。小さな体いっぱいに脈打つ生命の鼓動と、寝息と共に微かに動く肩から伝わるレティリエのぬくもりがグレイルの体を満たし、彼は初めて自分が今生きていることを実感した。
生きている他者の温かさを感じることで、やっと自分の生を認識できる程に、彼は自分が生きているということが信じられなかったのだ。
高熱により何度も意識を失い、焼ける様な傷の痛みが体を蹂躙する度に何度も死を覚悟した。目が覚める度に、生きていたことへの安堵感と、次に意識を手放せば二度と目覚めることが無いかもしれないという恐怖に犯され続け、気が狂いそうな時間をただ黙って耐えるだけの日々は絶望するほどに恐ろしいことだった。
レティリエが微かに身動ぎして、胸の中に埋めていた顔が少しだけ離れる。起こさない様にそっとレティリエの体から手を離すと、彼女の頬に大きい擦り傷がついていることに気づいた。
見ると、頬だけではなく全身傷だらけだ。両足には包帯が巻かれ、体のあちこちに手当ての跡がある。彼女が自分を救う為に尽力してくれた証だ。
グレイルはレティリエの頬の傷を指の腹でそっとなぞった。肌が白いからか、傷はかなり目立つ。幸い傷はそれほど深くなく、跡が残らなそうなのが救いだった。
だが、彼女はきっとそんなことは露ほども気にしないだろう。彼女はそういう女性なのだ。そして自分は、そういう彼女の力になりたいと思うのだ。
「レティリエ」
幼馴染みの名前を呼ぶと、自分に背を向けてソワソワしていたレティリエの尻尾がピクッと動き、真っ赤な顔がそっとこちらを向いた。
「お前のお陰で本当に助かった……ありがとう」
胡座をかいた状態で両膝に手をつき、そのまま頭を下げる。レティリエはビックリした顔をしてグレイルを見つめていたが、やがて照れくさそうに微笑んだ。
「ううん、あなたがいたから私達ここまで逃げられたのよ。私の方こそお礼を言わせて」
「いや、あそこから逃げられたのもレティの機転のお陰だ。俺は何もできなかった……本当に不甲斐ないよ」
「そんなことないわ! 私……あなたが追いかけてきてくれて本当に嬉しかったの……誰も来てくれないと、思ってたから」
捕まった時の恐怖を思い出して、レティリエの胸がきゅうと締まった。
幌馬車の中で手足も声も封じられた状態で目覚めた時の恐ろしさは思い出したくもない。
だが、それ以上に、誰も助けに来てくれないかもしれないことが怖かった。あれは助ける価値も無い、体のいい厄介払いが出来たと、自身の存在価値を否定されることが何よりも恐ろしかった。
それでも彼は来てくれた。自分の命を賭けて。それだけでレティリエは救われたのだ。
「助けに行かないわけないだろう。仲間なんだから」
何を言っているんだ? とでも言いたげに、グレイルは不思議そうな顔をした。
当たり前の様に使ってくれる「仲間」の言葉にレティリエは心の中で感謝の言葉を送る。その他大勢の人がどう思っていようとも、彼一人だけが自分の存在価値を認めてくれるだけで十分だった。
「それにしても……お前、かなり大胆なことができるんだな。人間に一矢報いた時は物凄くかっこよかったぞ」
「えっ……!」
グレイルが言っていたのは、山小屋で人間に戸を開けさせ、首もとに噛みついた時のことだ。だが、レティリエは別のことを想像していた。
寒さに震えるフリをしながらグレイルの首元にすがりついたことを思い出し、顔が熱くなる。
(よく考えたら…とんでもなくはしたないことをしてしまったわ……)
レティリエはその時の光景を思いだし、真っ赤になって俯いた。今日は朝から色んなことが重なりすぎて、もうまともにグレイルと会話ができないかもしれない。
「あれ? 雄狼も起きたのか!! おーい、大丈夫かー?」
気まずい空気をかきけす様に、快活な声が洞穴に響いた。
見ると、洞穴の入り口に若いドワーフが立っており、二人に向かって手を振っていた。おそらく、今日の分の食糧と薬を持ってきてくれたのだろう。レティリエは慌ててドワーフの元へ駆け寄った。
「あっ、あの! 今日の分ですよね。毎日ありがとうございます」
「長老の指示だから気にするなよ。それより、雄狼の方も起きたんだな。医者と長を呼んでくるから待っててくれよ」
そう言うと、若いドワーフは踵を返して集落へ戻っていった。
暫くして、医者と長老が洞穴へやってきた。
「ほう、一命を取り止めたようだな。悪運の強い奴だ」
医者はニヤリと笑ってグレイルの傷の具合を確かめた。
「ふぅむ……一先ず熱は下がっておる様だし、峠は越したようだな。だが、傷自体はまだ完全には治りきっておらん。このまま動き回るとまた元の木阿弥じゃぞ。もう数日は安静にしていなさい」
「ご尊老、お陰様で私は命を取り止めました。心から礼を言わせてください。しかし、私達は一刻も早く先へ進まないといけないのです」
医者に敬意を払いながらも、グレイルはハッキリと言った。医者は何かを言いたそうだったが、真剣な顔つきでドワーフ達を見ている雄狼の姿を見てため息をつき、助けを求めるように長老を見た。
長老は黙って自身の白ひげを弄っていたが、にこやかな顔で二人に向き直った。
「ほっほっ。では我々の集落へ来なさい。人間に見つかるのが怖いと言うのであれば、ここよりは間違いなく安全じゃ」
「ですが……」
「闇雲に事を進めると足を掬われるぞ。年寄りの言うことは聞いておくことじゃ」
長老の言葉を聞き、グレイルはぐっと言葉に詰まった様子だった。
レティリエはそんなグレイルをじっと見つめた。おそらく全快していない今の状態で進むのが危険なことは彼もわかっているのだろう。だが、それよりも自分を一刻も早く村へ帰らせてあげたいと思っているのだ。彼は優しい人だから。
「グレイル、お言葉に甘えさせて頂きましょう。あなたもまだ万全では無いし……私もまだ足が痛いの。少しだけ休んでもいい?」
わざと少しだけズルい言い方をする。レティリエ自身の言い訳にすれば彼が断れるはずがないことを知っているから。グレイルはレティリエの意図を察したのか、敵わないとでも言いたげに笑った。
「……それではお世話になります」
頭を下げるグレイルの隣で、レティリエもお辞儀をする。二人の姿を見て、長老と医者は満足げに微笑んだ。
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