第11話 脱出

 窓から見える空が橙色に輝きはじめ、あっと言う間に空は漆黒の闇を迎えた。秋は日が落ちることが早いことにレティリエは感謝した。

 そろそろ頃合いだ。レティリエは深呼吸をして、胸に手を当て、緊張で大きく鼓動する心臓を沈めた。隣の檻に目をやり、グレイルの姿を視界にいれる。彼の存在は、いつだって自分の大きな原動力だ。


「あの……ご主人様、少し宜しいでしょうか」


 男に話しかけようとして呼び方に困り、一瞬考えたあげく男の好きそうな呼び方で声をかける。案の定、男はレティリエの声を聞くと足早に檻へと向かってきた。


「どうしたんだい可愛い狼ちゃん。ご飯かな?」

 

 先程の水浴びの一件で飼い主気取りになったのだろうか。うってかわった男の態度に、グレイルの顔が不快そうに歪んだ。レティリエは気持ち悪さに叫びだしたい気持ちを抑え、努めて冷静に振る舞う。


「いえ、あちらの怪我をしている狼の手当てをさせて頂けませんか? 檻から出る許可が欲しいのです」

「手当て? それは無理な話だね、可愛い狼ちゃん。その頼みは聞けないなぁ」


 当然の反応だ。さすがに簡単には許可してもらえないだろう。だがそんなことは百も承知だ。


「でも……そうなると彼はきっと死んでしまうわ。彼は狼の中でも一、二を争うくらい強い雄ですから、きっと闘技場でも活躍してくれると思いますのに……とても残念です」

「それならば包帯と傷薬をやる。自分で手当てくらいできるだろう」

「いえ、多分彼はこのまま死ぬ気です。恐らく自分で手当てをすることは無いでしょう」


 そう言ってグレイルの檻を指差す。朝から全く手をつけられていない食事が置きっぱなしになっていた。男はチッと舌打ちをして腰に手を当て、逡巡し始めた。


 レティリエは預かり知らぬことだが、実は闘技場に売った獣達の戦績が良い場合、売り金とは別に礼金が支払われることになっている。男は直接雄狼の実力を見ていなかったが、幌馬車を襲撃した件や拘束された状態でも闘志を失わない姿を見るに、雌狼が言っていることは本当だろうと見当をつけた。

 雄狼と雌狼を同じ檻に入れたとしても、二人には首輪がつけられている。逃げ出すことは不可能に違いない。

 男はそこまで考えると壁から鍵を外し、レティリエの檻の錠を開けた。水浴びをさせる時と同じように腰に荒縄を巻いた状態で、壁に繋がれている首輪を外す。

 荒縄をしっかり握った状態で隣の檻を開け、レティリエを檻の中に入れた。持っていた荒縄は、しっかりと鉄柵に結びつけることは忘れない。


「包帯と薬はここに置いておく。終わったら言え、いいな」

「はい、ありがとうございます」


 レティリエは深々と頭を下げた。グレイルに向き直り、金色の瞳を見上げる。

 グレイルの顔は心配そうな不安げな表情だったが、同時に安堵している顔でもあった。なんだか随分長いこと会っていない様な気がした。もし許されるのなら、このまま彼の腕に飛び込んで抱き締めてもらいたかった。

 レティリエはふるっと首を振るうと、グレイルの腹に巻かれている赤黒く染まった包帯を外した。包帯の下には深く大きい傷があり、出血は止まっていたが傷口はじくじくと膿んでいてかなり痛そうだ。

 本来は座っているだけでもかなりの激痛だろうに、不屈の意を表す為にどっしりと構えて闘志を絶やさないグレイルの鋼の精神力を見て、レティリエは改めて彼の強さを知った。

 薬を布につけ、染みないように少しずつ丁寧に塗布していく。傷口を綺麗にして清潔な包帯でしっかりと巻いた。

 勝負はここからだ。


 終わりました、と男に伝えて立ち上がる。が、弾みでよろめき、尻餅をつく前にグレイルの右手に抱き止められた。


「レティリエ、大丈夫か。無理するな」

「え、ええ、大丈夫よ……」


 レティリエはグレイルを見上げた。そのまま数刻時が止まる。





 男は訝しげに様子を見ていたが、二人が見つめ合う所で苛立ちを抑えられなくなってきた。

 恋人なのか夫婦なのかは知らないが、潤んだ目で雄狼を見上げ、薔薇色の頬を紅潮させている雌狼の方は、明らかに雄狼に好意を持っている。雄狼の方は、突然の雌狼の行動に驚いているようだったが、それでも彼女を見つめる眼差しはとても優しい。

 凛々しい顔立ちと逞しい肉体を持つ雄狼の姿は自分とは対称的なものであり、それも男の神経を逆撫でする。そのまま接吻をしようものなら、商品と言うことを忘れて殴り飛ばしてしまいそうだった。

 イライラと貧乏ゆすりをしながら見ていると、今度は雌狼がもじもじし始めた。胸の前で手を組み、ぽっと顔を赤らめて雄狼から視線を逸らす。


「グレイル……どうしよう……私……なんだかとっても寒いの……」

「どうした? 具合が悪いのか?」

「ええ、もしかしたらさっきの水浴びで風邪をひいたのかもしれないわ……」


 雌狼が地面にペタンと座り、カタカタと震え始めた。雄狼が、戸惑いながらも優しい手つきで背中を撫でてやると、雌狼が潤んだ目で雄狼を見上げた。


「ねえ、グレイル、温めて……」


 囁きながら、雄狼の首に手を回す。足を組んでいる雄狼の上に座るようにして体を寄せると、雌狼の胸が雄狼の体に触れそうになった。


「おい、犬共! 今すぐ離れろ!!」


 男は檻につかみかかって乱暴に揺さぶった。ガシャンガシャンと派手な音がし、二匹の狼はハッとこちらを向いた。まるで人間がいることに今気づいたかのような振る舞いが、二人だけの世界に浸っていた様に思えて男の神経を逆撫でした。

 男は檻の扉を開けると、雌狼の腰に巻きつけている荒縄を柵から外し、乱暴に引っ張った。


「お待ちください、ご主人様」


 強く引っ張られ、苦しそうに息を吐きながらレティリエが言う。


「私、このままではもう戻れません。どうか哀れな私めにお情けを頂けないでしょうか」


「!! レティリエ、何を…!」


 グレイルが慌てた様な声を出す。男はレティリエの言葉にニヤリと笑った。


「そうか。それでは仕方ないな」


 男はレティリエだけを檻から出し、しっかりと錠を下ろすと鍵を元の場所へ戻した。

 レティリエの腰に巻かれている荒縄を外し、そのまま腰に手を回して抱き寄せる。顎に手を当ててクイと上を向かせると、潤んだ美しい金色の瞳が自分を見ていた。

 輝くような肢体に覆われた、掛け値なしに美しい雌の狼だ。今からこの雌を他の雄の前で征服するという快感で男はゾクゾクと震えた。




 一方レティリエは冷静だった。ここまでは予想通りだった。突如体を許すことに疑念を抱かれない様、先程は恥を忍んでまで近寄らせたのだ。

 案の定、男は誘いに乗ってきた。チャンスは一度きりだ。

 レティリエは口先を持ち上げ、口付けをする様に男の顔へ近づき、容赦なく喉元に噛みついた。


「いっっっってええええぇぇぇぇぇぇえ!!!!」


 男は恐ろしい悲鳴をあげてのたうち回った。牙があるとは言え、人の姿と女の非力な顎では致命傷にはなりえない。だが、隙を作ることはできた。

 レティリエは男を突き飛ばす様にして駆け出し、壁にぶら下がっている鍵目掛けて飛び付いた。鍵を掴んで踵を返し、グレイルの檻の中へ鍵を投げ込む。


「んのっクソアマぁぁぁぁぁぁぁぁ!! 殺してやる!!!」

 

 商品という事を忘れ、男が憤怒の形相でつかみかかってきた。レティリエを床に引き倒し、覆い被さるように馬乗りになってギリギリと首を絞める。頭が真っ白になり、肺が酸素を求めて悲鳴をあげた。

 意識が遠退き、死の気配を感じた瞬間、男の体が後方に吹っ飛んだ。咳き込みながら慌てて飛び起きると、鍵を開け檻から脱出した狼姿のグレイルが男の腕に噛みつき、馬乗りになっていた。ボキィっと骨を砕く嫌な音がして、耳をつんざくような叫び声が響き渡る。


「グレイル!!!」


 名前を叫ぶと黒狼はレティリエに駆け寄り、背中に乗せると同時に木製の窓を蹴破って山小屋の外へと飛び出した。

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