第12話 逃亡

 二人は闇の中を飛ぶように走った。死の恐怖が背中から追いかけてくるようで、後ろを振り向くことができなかった。

 もし捕まれば、今度こそ二人とも命は無いだろう。レティリエは身を縮こませ、グレイルの背中にぎゅっと抱きついた。グレイルの毛並みは温かく、生きている温もりがレティリエの全身を包んだ。

 絶対に生きて村に帰らなくては。二人の意志は同じだった。


 山小屋から脱出して数時間が経ったが、グレイルは走るのを止めなかった。やがて空気に湿った臭いが混ざる様になり、ポツポツと雨が降り始めた。はじめは髪を撫でる様な小雨は徐々に強くなり、あっという間に滝のような雨へと変わった。

 大きな雨粒が、二人を容赦なく濡らしていく。特にグレイルは狼の姿になっている為、濡れた毛並みが重そうだ。レティリエは、少しでも雨からグレイルを守ろうと背中に覆い被さった。

 雨が降り始めてから、グレイルの動きが少し鈍くなった様に感じた。息遣いが徐々に荒くなり、肩で大きく息をしている。レティリエは異変を感じ、グレイルに話しかけようとした。

 瞬間、グレイルの脚が木の根に引っ掛かり、二人は地面に叩きつけられるように倒れこんだ。


「グレイル!!」


 レティリエはガバッと飛び起きるとグレイルの側へと駆け寄る。グレイルはヨロヨロと四つ足で立ち上がり、レティリエの顔を見上げた。


「……っ大丈夫だ。レティリエすまない。怪我は無いか?」

「ううん、私は平気。グレイルの方こそ、怪我がまだ治っていないのよ。傷の具合を見せて」


 レティリエはグレイルの体を労るように抱きしめ、黒の毛並みを掻き分けて腹に巻かれている包帯に手を添えた。途端に手にかっかと燃えるような感覚が手のひらに伝わり、レティリエは驚愕した。


「すごい熱……!!」


 見ると高熱のせいでグレイルの顔色は悪く、呼吸も荒い。気丈に振る舞ってはいるが、足元はフラフラと覚束なく、今にも倒れそうだった。よく見ると、包帯からじわりと鮮血が滲み出ていた。傷口が開いている。


「グレイル……気がつかなくてごめんなさい。もっと早くに休むべきだったんだわ……」


 レティリエは震える声で言った。死への恐怖から逃れるのに必死で、些細な変化に気付かなかった自分を責めた。

 体温を奪う冷たい雨と、ふさふさとした毛並みに遮られて体温がわかりにくくなっていたのもあるが、それでもグレイルの不調に自分が気付くべきだったのだ。レティリエの胸は後悔の念で押し潰されそうだった。


「いや、まだ先を行く。レティリエ乗ってくれ」

「ううん、お願い。もう休みましょう。これ以上は無理よ」


 どう見てもフラフラで今にも倒れそうなはずなのに、ボロボロの体に鞭打って動こうとするグレイルを、レティリエは首もとにすがり付いて止めた。


「だめだ! 人間共があの馬車とかいう乗り物で追いかけてきていたらどうする? すぐに追い付かれるぞ。少しでも早く先へ進むべきだ!」

「だめ、グレイル。ここままだとあなたが死んでしまうわ。お願いだからここで休んで!」

「レティリエ、よく聞くんだ。俺達には休んでる暇なんてない! いいから乗れ!」

「いやよ!!!」


 レティリエの大声に、グレイルは驚きの表情を浮かべた。

 普段あまりハッキリと物を言わないレティリエが、涙を浮かべながらグレイルをしっかりと見据えている。金色の大きな瞳から涙がポロポロ溢れた。


「ごめんなさい……私が……私が狼になれないから……あなたに負担をかけてしまったのよ……」

「関係ない。お前一人分くらいで変わるわけないだろう」


 レティリエはふるふると頭を振った。

 そんなわけはない。少なくとも、自分が狼になれるのであれば、グレイルは自分を乗せずに一人で走れたはずだ。こんな時でも自分を責めず、気遣ってくれる彼の優しさが今は痛かった。

 レティリエは手で涙を拭うと、両手でグレイルの頬に触れた。


「私、あなたと一緒なら死ぬのは怖くない。でもこのまま逃げ切ったとしても、あなた一人に何かあったら私はもう生きていけないわ」


 グレイルの目を正面から見据えて、レティリエは強く言った。

 この優しい幼馴染みは、おそらく自分を守る為に先を急ごうとしている。でも、相手のことが大事なのはレティリエも一緒だ。もし例え人間に追い付かれ、二人とも命を落とすことになったとしても、一人で死ぬよりはよっぽどマシだ。

 グレイルはレティリエの強い眼差しを受け、観念した様にため息をついた。


「どちらにしろ結果は変わらないのか」


 グレイルは苦笑すると、クイと鼻で前方を指した。


「あそこに洞穴がある。今日はそこで休もう」

 

 レティリエは安堵したように息を吐き、コクリと頷く。

 二人は無言で洞穴に向かって歩を進めた。






 元は野生動物の巣穴だったのだろうか。大木が重なりあう根の下にぽっかりと大きな穴が口を開けていた。雨や風の力で削られていったのか、レティリエとグレイルが腰を落ち着けるには十分な広さだった。

 グレイルはふらつく足で中に歩み寄ると、そこで力尽きたのか崩れるように地面に倒れた。

 レティリエは何か手当てに使えるものを探す為に洞穴を飛び出した。近くに生えている大きな葉やツルを採取して小脇に抱え、大木から剥がれ落ちた木の皮を手で反り返らせて中に雨水を入れる。


 洞穴に戻り、グレイルの元へ駆け寄ると、血に染まった包帯をそっと外した。血液は鮮やかな赤色をしており、傷口が開いているのは一目瞭然だ。

 レティリエは木の皮を傾けて傷口に水をかけると、スカートの裾で優しく拭った。手頃な布が無いのが痛い。傷口を綺麗にすると、葉を体に沿わせるようにあてがい、ツルで縛って固定した。

 グレイルはお礼を言いたげに頭をもたげたが、意識が朦朧としているのかすぐに地面に倒れこんでしまった。大きく肩で息をするグレイルの呼吸は荒く、顔面は蒼白で血の気がない。医学の心得の無いレティリエでさえ、この状況がかなり危ないことがわかった。

 レティリエは、ぐったりとしたグレイルの体にそっと触れた。ぐっしょりと濡れたグレイルの毛並みを手で優しく払い、水分を飛ばしてやる。それでも大量に雨を吸った毛並みは重たそうに体に張り付いていた。

 冷えない様に自身の尻尾でグレイルの体を包むも、小柄な彼女の尻尾では大柄なグレイルの体を覆うには無理がある。

 レティリエは体温を分け合う様に、グレイルの体を抱き締めた。艶やかな黒い毛並みが頬に触れ、思わず顔を埋めた。どくどくと生命の力強い鼓動がレティリエの耳を打つ。


 あぁ神様、彼は一族に必要な存在です。どうか助けてください。


 レティリエはぎゅっとグレイルの毛を握った。狼になれない自分は、戦うことはおろか、狩りをして食糧を運んでくることもできない。

 レティリエはこんな時に何もできない自身の無力さを呪った。ここで二人揃って朽ち果てるしかないのだろうか。


 その時、レティリエの鼻にふわっと嗅いだことのある匂いがよぎった。

 レティリエはガバッと飛び起き、鼻をひくつかせる。湿った空気の中に薫る草木の匂い。一瞬だけだったが、その中に微かに岩と土と鉄の香りが混じっているのを感じた。 

 森の中で鉄の匂いを嗅ぐ違和感に、レティリエは首を傾げた。人間達が持つ武器の匂いかとも思ったが、それにしてはどこか懐かしさを感じる匂いだ。

 レティリエは記憶の糸を手繰り寄せた。目を詰むって意識を鼻に集中させる。岩と土と鉄の香りがひとつに混ざりあって記憶を形成し、レティリエは唐突に思い出した。

 この匂いは……ドワーフだ。

 一度思い出すと、宝箱の蓋が開いた様に次々と記憶が甦ってきた。




 記憶の中の幼いレティリエは、手にヤマモモのジャムを持ったまま走っている。初めて一人で作ったジャムをグレイルに食べてもらいたくて、彼がいる群れの近くまで向かっているのだ。

 でも向かう途中で急に気恥ずかしくなり、目的地が近づくにつれ、歩みは遅くなっていく。結局は渡すのを諦め、幼いレティリエはジャムを持ったまま近くの森で切り株に座ってぼうと空を眺めていた。

 ここまで来たからには渡してしまいたいような、このまま持ち帰って何事も無かったことにしてしまいたいような、相反する感情がぐるぐると頭の中を駆け巡り、レティリエは途方にくれていた。

 その時、レティリエの耳に微かに子供の泣き声が聞こえた。レティリエは耳をピンとそばだてて、声のする方に歩み寄る。すると、大きなレニの木の下で、まだ小さな子供のドワーフがちょこんと座って泣いていた。


「どうしたの?」


 声をかけられたドワーフの子供はびっくりした様に振り返ったが、レティリエの優しい表情に安心した様子だった。


「おかーさん達とはぐれちゃった……」

 

 泣きべそをかきながらドワーフの子供は訴えた。寂しさを思い出してしまったのか、目からポロポロと涙が溢れた。

 レティリエは子供の気持ちが痛いほどわかった。レティリエも道に迷って帰れなくなったことがある。不安と恐怖に怯えながら迷い歩いていたこと、マザーに見つけてもらって抱きしめてもらった時の安堵感は今も忘れられない。

 レティリエはドワーフの子供の頭を優しく撫でた。


「あのね、道に迷った時はそこを動いちゃダメなのよ。そうすれば大人達が見つけてくれるわ」


 そう言って、レティリエは持っていたジャムの瓶の蓋を開け、グレイルと一緒に食べようと持ってきたライ麦パンに塗った。


「一緒にこれを食べて待っていましょう。あのね、これ、何につけてもすごく美味しいの。食べてみて」

「ほんと??」

 

 ドワーフの子供は目を輝かせて、受け取ったパンにかぶりついた。


「うわぁ本当に美味しい!! ねぇねぇ、これ、他のものにつけて食べても美味しいかな?」


 そう言ってドワーフの子供は迷子になっているのも忘れ、はしゃぎながら色んな物にジャムを塗って食べていた。



 

 空があかがね色に輝きはじめ、そろそろ日も暮れようと言うとき、子供を呼ぶ声が聞こえてドワーフの子供は弾かれたように立ち上がった。


「おかーさんの声だ!!」


 子供は目をキラキラと輝かせ、嬉しそうにその場で何度もジャンプした。喜びを全身で表現する子供を見て、レティリエも温かい気持ちになった。


「見つけてもらえて良かったわね」

「うん! おねーちゃんありがとう!」


 てっきりそのまま走っていくのかと思いきや、子供はその場でジャムの瓶を持ったままもじもじしている。レティリエは子供の言いたいことを察して微笑んだ。


「それ、持っていっていいわよ」


「ほんとに?! わーい! ありがとう!!」


 嬉しそうに言うと、今度こそ子供は声のする方に駆けていった。



 遠い遠い昔の記憶だ。レティリエは懐かしさに顔を綻ばせた。

 あの時の子供は元気にしているだろうか。何にせよ、この近くにドワーフがいるのは間違いないし、もしかすると力を貸してくれるかもしれない。一縷の望みをかけ、レティリエはドワーフの集落を探すことにした。


「グレイル、もしかしたら助けを呼べるかもしれない。あなたはここで待っていて」


 グレイルの毛を優しく撫でながら耳元で囁く。グレイルからの返事は無かったが、耳が微かにピクッと動いた。

 レティリエはグッと拳を握りしめると、雨の中へ飛び出していった。

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