白銀の狼

結月 花

第1話 狼の村

 レティリエの朝は孤児院の厨房から始まる。

 今日も彼女は早くから厨房に立って朝の仕度に勤しんでいた。

 切ったライ麦パンにバターをぬり、砂糖を少し振りかける。昨日採ってきたばかりの木苺を昨夜のうちにジャムにしておいたけれど、味は大丈夫かしら。ひと匙味見をし、出来上がりに満足する。

 先程のパンにジャムを塗って、木の籠に詰めれば完成だ。


 準備を整えると鏡の前に立ち、自分の身なりを確認した。

 好きな人に会うのだから、本当はもう少し身支度に時間をかけたい所だけど、あいにく朝の時間は限られている。

 ふわふわとした銀色の髪の毛の中からを手でつまんでピンと立たせ、自身の尻尾を撫でるように整えると、レティリエは鏡の前でニッコリと笑った。



 建物を出ると、レティリエは建物のすぐ裏にある森に向かって真っ直ぐに歩きだした。目的地が近づくにつれ高揚していく感情に胸を踊らせながら、いつもと同じ場所に向かう。

 ある地点まで来ると足を止め、ソワソワしながら髪を手櫛で整えた。


(今日もいるかしら……)


 ドキドキと胸を高鳴らせながら近くの木に登り始める。数メートル程登った所で体の向きを変え、太い枝にちょこんと腰をおろした。


 眼下には一匹の黒狼がいた。体は大きく、毛は夜闇に紛れ込みそうな漆黒だ。鋭い眼光と精悍な顔つきから見るに、若い雄の狼だろう。狼は今、頭を低く下げ、右足を手前に出した状態で不動の構えを取っている。

 数刻の沈黙を破り、やがて草むらから一匹の肥えた野ウサギが飛び出してきた。生命の危機を察知したウサギは懸命に足を動かしてその場から離れようと駆け出すが、狼はすかさず躍りかかり、一噛みで地面にねじ伏せた。ウサギは地面に押さえつけられ数刻もがいていたが、やがて絶命し、くったりと地面に横たわった。


 見事な狩りの一幕だ。

 レティリエはキラキラした瞳でそれを見ていた。すると、雄狼はふと頭上に目をやり……自分とばっちり目があった。やっぱりバレてた。狼は鼻が良いから、自分が来た瞬間にはとうに気がついていたと思うけど、でもやはりこそこそ覗き見していたことをわかっていると言われているようで気恥ずかしい。

 照れる気持ちを隠すように、レティリエは木の麓を指差した。


「ねぇ、ちょっとだけ休憩しない?」


 雄狼はふっと笑うと、次の瞬間には人の姿に

 顔や手足は人の姿をしているものの、耳や尻尾は狼のままだ。

 ツンツンとした短い黒髪をワシワシかきながら近づいてくる男に向かってレティリエは手を振り、弾みをつけて地面にすとんと飛び降りた。

 切り株に置いてあった籠から水筒とパンを取り出して、ひとつを男に渡す。


「あのね、昨日これ作ってみたの。味見してくれる?」

「おっ木苺か! 旨そうだな」

「うん、昨日子供たちと一緒に作ったの。グレイル、木苺好きかなぁって思って」

「今一番良い季節だからな、貰うぞ」


 グレイル、と呼ばれた男は渡された包みを開け、ふんふんと匂いをかぐとパクッと噛みついた。


「うん、旨い」

「わぁ、良かったあ!」


 パッと顔を綻ばせると、グレイルがこちらを向いてふっと微笑んだ。不意打ちの笑顔にレティリエの心拍数が急上昇する。恥ずかしさを紛らわすように慌てて目をそらし、レティリエは自分のパンに口をつけた。

 もぐもぐと咀嚼しながら、横目でチラリとグレイルを仰ぎ見る。精悍な顔立ちを際立たせる高い鼻梁と切れ長の目。がっちりした体躯は他の狼と比べてもかなり大きい。グレイルとは幼い頃からの間柄だが、かつての面影はどこへやら、彼はいつの間にかすっかり大人の男になっていた。


(やっぱり今日もかっこいいなぁ……)


 恥ずかしくなって視線を落とすと、地面についたグレイルの手が視界に入った。ゴツゴツと骨ばった大きな手。数センチ手を伸ばせば届く距離にいるのに、自分はこの距離を詰めることができない。

 モソモソと味のしないパンを咀嚼していると、パンをペロッと食べ終えたグレイルがこちらに向き直った。


「今日のも旨かったよ。毎日ありがとうな、レティ」

「ううん。気に入ってもらえたなら嬉しいわ」

「いつものヤマモモも旨いけど、木苺も良いな。やっぱりレティが作るジャムが一番だよ」

「本当? それは良かったわ!」


 彼からの賛辞が嬉しくて思わず手を叩いた拍子に、彼女の白いふさふさした尻尾がグレイルの顔にバシッとあたった。いてぇ……と呻くグレイルにあわてて謝ると、彼はニヤッと笑ってレティリエの尻尾を痛くない程度に引っ張った。その感触がくすぐったくて、レティリエはクスクス笑った。


 自分はこの時間が何よりも好きだ。



「最近子供たちは元気か?」

「うん、皆元気よ。でもマザーはグレイルのことを気にしていたわ」

「そうか、最近院に顔を出せてないからな」


 グレイルは孤児院で育った。両親はグレイルがまだ幼い頃、狩りに行った際に崖から落ちて死んだ。

 狩りには危険がつきものだ。最中に命を落とすことも少なくない為、村には行き場を失くした子供達の面倒を見る施設がある。レティリエと出会ったのもその孤児院だった。


 狼達は適齢期になると、各々「群れ」に所属して狩りを行う。グレイルは孤児院を出てからはもう随分経つので、今の孤児院の様子をほとんど知らない。きっと自分がいた頃と比べたら様変わりしているのだろう。

 自分だけではなく、同じ時期に孤児院で生活していた他の仲間達も、今はそれぞれの群れに所属して毎日狩りの為に忙しくしていると聞いている。


 ――ただひとり、レティリエを除いて。





「グレイル、そろそろ狩りの時間だぞ」


 他愛のない話に花を咲かせているうちに長い時間が経っていたようだ。

 ふいに、森の奥から人狼達が現れた。男が二人に女が一人。皆これから狩りに行く為に網や短刀を持っている。

 三人の姿を見かけると、レティリエはさっとグレイルから距離を取った。しまった、いつもは皆が来る前に帰っていたのに……今日はついつい話し込んでしまったみたいだわ。

 思わずうつむいてしまったレティリエに女の狼が鋭い目線を送り、小馬鹿にしたようにふんと鼻で笑った。


「いつもより集合場所に来るのが遅いと思ったら、こんなところで油を売っていたのね。レティリエ、申し訳ないけどグレイルを連れていくわ」

「う、うん……」


 レティリエは消え入りそうな声で答えた。女の冷たい視線を真っ向から受けとめられず、どうしても視線は地面を向いてしまう。すると、長髪をひとくくりにした男が笑いながら女の肩に手を乗せた。


「まぁまぁレベッカ、そんなにカリカリすんなって。レティリエは孤児院のマザーに頼まれてグレイルに朝飯を届けに来てるだけなんだから。な? レティ」

「えっあっ……うっうん、そうなの」


 ばつの悪そうな顔でもじもじと答えるレティリエに、レベッカと呼ばれた女の狼は腰に手を当ててつんと横を向いた。


「あっそう。狩りに行かれないのに何の用があるのかと思ったわ。あと、私に気安く触らないでくれる? ローウェン」


 レベッカがうっとうしそうに肩から手を払い除け、ローウェンと呼ばれた男は苦笑いしながら自身の手を引っ込めた。


「それはいいけどグレイル。もうすぐ集合の時間だよ。長は遅刻に厳しいから」


 もう一人の雄狼がグレイルに短刀を渡しながら言った。少し垂れ下がった目尻が優しそうな印象を与える雄の狼だ。


「あ、ああ、すまん。クルス」


 グレイルはクルスから短刀を受けとると立ち上がった。


「レティ、飯ありがとうな。さっきのウサギは皆で食べてくれ」

「あっうん……またね」


 そう言って去って行くグレイルの後ろ姿を、レティリエは寂しげに眺めていた。

 自分も皆と一緒に狩りへ行けたらどれだけ良かっただろう。だが、自分にはそれができない。

 情けなさで胸がキュッと痛んだが、レティリエはふるふると首を振って立ち上がると、グレイルにもらったウサギと籠を持ち、一人寂しく村の方へと歩き出した。

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