3.空の世界

耳馴染みのある、他ならぬ自分自身の声。

しかし不思議と特別に安心させられる声。

俺の大好きな双子の兄の声で間違いなかった。辿り着いてくれたのだ。


赤く塗装された滑り台の下から顔を出す。自分と全く同じ姿をした、移し身が、こちらへ駆け寄ってくる。お揃いのリュックを背負って傘をさしている。曇天から降り注ぐ豪雨がシャワーのように思えたので、俺は飛び出していって勢いよく抱きついた。


「夜深!!」


雨水に冷やされた腕を、兄の首に回す。夜深の背負うリュックが邪魔だが、それ以上に再会の喜びが勝った。

夜深自身もここに来るまでにだいぶ濡れていたが、ぎゅっと両腕で強く締めつけると水分が白い制服のシャツに滲んで染みて、ますます濡れていく。俺の顎を伝った雨雫が夜深の左肩に落ち、顔を押し付けると瞳から溢れた雫が更にそこを濡らした。


「わっ!ひ、昼間ぁ、」


兄は、何とか傘で俺を雨から守ろうとしながら抱きとめた。あまりに勢いが強く突然だったから、バランスを崩しかけて数秒あたふたする。その仕草を見慣れていた。


「夜深、夜深。どうして隣に居ないの?」


「っ、昼間が突然どっか行っちゃったからー…!もう、心配したっ。無事?怪我してない?」


矢継ぎ早に言葉を次いで、不安げに観察する。俺は元気な笑顔で答えた。


「無事だヨ!夜深の到着があと三秒遅かったら凍死してた。」


「凍死!?は流石にしないと思うけど…。怪我がなくてよかった。早くおうち帰って温かくしないと風邪引いちゃう。昼間、荷物はそれで全部?」


「うん!ぜーんぶびしょ濡れ。」


俺がリュックを揺らすと、夜深は微笑んだ。


「ふふ、後で乾かそっか。一緒に帰ろ?」


「モチロン!」


ぎゅっと手を握る。バケツをひっくり返したような雨は徐々に収まり始めていた。宙を飛ぶ水滴のひとつひとつが光って見える。

びしょ濡れの二人は一つの傘の下で、歩きながら話をした。


「また外に遊びに行きたくなっちゃったの?」


夜深が尋ねる。俺が突然居なくなって何かしらの悪いことをするのは日常的だった。


「うん。今日は風が強くてすっごい大雨だから、いつもと違う景色が見られると思ったんだ。」


何でもない風を装って答える。これ以上の理由を見つけられないので、この嘘偽りない幼稚な答えを言わざるを得ないのだ。


「そっか…確かに景色は全然違う。でも、台風の日は危ないから外に出ちゃ駄目だヨ?心配するし…万が一、君の身に何かあったらと思うと、もう」


夜深の身体が小さく震える。寒さの為ではないだろう。それほどまでに心配してくれていたのだ。そう、認識すると、俺は嬉しくなった。この嬉しさはお菓子を幾つ買ってもらったときよりも強く、加えてどんな美味しいお菓子よりも俺の舌に合う味だった。


「……あのね、」


俺が急に小さく、自信なさげな声を出したから夜深は心配そうに顔を近づけた。

傘が傾き、上の水滴がこぼれ落ちる。

俺の口からも、言葉がこぼれ落ちる。


「突然だったんだ。突然、ぶわーっと遊びたくなっちゃって、もう他のことなんか全部忘れてた。」


親にも先生にも言ったことのない"症状"。言語化するのも難しい、衝動的で短絡的で動物的な自分。やたらと冷静に普段通りの調子で喋っていた。


「いっつもそう。ガマンがじょーずにできない。いきなり遊びたくなって、夢中になると誰のことも何のことも忘れちゃって。全部が終わってから怒られるんだ!」


水溜まりに石を蹴って続ける。


「俺、良いこととか悪いこととか本当に分かんないんだヨ。他の子はみんな生まれる前から知ってるみたいだから、きっとカミサマが俺にだけ教え忘れたんだね。カイゼンとかハンセイも分かんない。ただただ楽しいなーって思ってただけ。……でも、」


立ち止まった。


「今日夜深が居なくて寂しかったから、すぐに悪いことしちゃったのに気付いたよ。」


お揃いの月色の目を控えめに見る。


「あのね、今日夜深のこと待たずに帰っちゃったのも、悪気はないんだよ。ゴメンネ」


自分から謝るのはよくよく考えれば珍しかった。この謝り方は適切ではなかったかもしれない。

ただ純粋に寂しかった。夜深も俺が居なくて寂しかったに違いないと思った。


「……ううん!いいんだヨ。」


夜深がにへら、と微笑んだ。繋いだ手に自然と力が入るのを感じる。

やっぱり、心配をしてもらえて許してもらえて、笑いあって一緒に帰っているのだから、俺のしたことは悪くなかったと思う。だって今、とても幸せなんだから。


「君に悪気がないのは分かってる。だからこそこうして捜しに行くんだ。お兄ちゃんだからネ、」


夜深は嬉しそうにそう言った。それから徐に傘を下ろす。


「?」


このときやっと雨音が止んでいるのに気付いた。見上げると、雲一つない澄み渡った世界が、俺たちの頭上に出現していた。


「…!! スゴい!晴れたネ、夜深!」


ぱたぱたと傘を振る兄も、手を止めて空を見上げる。


「……台風の目だ。スゴいね、昼間…!」


小学生の頃の、夜深に理科を教えてもらった記憶が甦った。


「…実際に見るとこんなカンジなんだ」


「上手く伝えられてなかったカナ?」


「ううん。きっと夜深と一緒に見るから、変な補正がかかってるんだヨ!」


空気はやや蒸していて服がべっとりと肌に張り付いている。服の裾から今もぽたぽたと水滴が落ちる。それも全て楽しい。当時の想像の何倍も輝いて見える空の、太陽の下では、何もかもが光を受けて輝いていた。


空の青、標識の赤、道路の黒、木々の緑、横断歩道の白、花壇にある千日紅の紫、俺たちの目の黄。夜深の持つ傘の先の石突きからぽたぽたと垂れる雫や、辺り中たくさんの水溜まりの透明があらゆる色を纏めて調和させていた。

雨上がりの世界は、ずっとずっとカラフル。


俺は一目でこの瞬間が大好きになった。


「行こう、夜深!家まで競走しよ、」


返事も聞かずにはしゃいで駆け出す。

もちろんその手は、兄の手を握っている。


「え!?ひ、昼間ったら……!?」


きつく引っ張られてぱたぱたと走る夜深の足音、その手の温度に安心させられる。湿った道路を蹴って水溜まりを飛び散らして駆け抜ける。楽しくて楽しくて笑い声が溢れた。

誰よりも速く、前へ、もっと前へ。



二人一緒、手を繋いだ俺たちは誰よりも一等賞だった。

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