最終話 恋人の距離

「風呂、入ったんだよな?」


 突然、そう訊かれ、ハッと我に返って「うん」と私は顔を上げた。


「お先にいただきました」


 今の私はゆったりとしたTシャツにショートパンツという出で立ち。『ご覧の通り』って付け加えたいくらいのラフな格好だ。部屋着全開。バイトに向かう彼を見送ったときとは大違い。もちろん、陸太も一目見て分かったんだろう。さっきの聞き方も、質問というよりも確認するようなそれだった。


「じゃ、俺もさっさと入ってくるわ。寝てていいからな」

「寝たふりして待ってる」


 にんまり笑って言うと、「なんでだよ」と彼はため息混じりに苦笑し、


「まあ、待ってる、て言われる気はしてたんだよな。だから――」


 一歩身を退き、「はい」と押し付けるように私に渡してきたのはレジ袋だった。そういえば、視界の端でそれを右手に提げているのは、ずっと見えてはいたけど……。


「私に……?」


 きょとんとしながら、じんわりと胸の奥が熱くなるのを感じた。

 ちょうど、さっき、懐かしい夢を見ていたからか。デジャブのようなものを覚えていた。

 まだ、私が『男』だったとき。初めて、自分の女心というものを自覚した夜。あのときも、陸太はこっそり私に唐揚げ買って渡してくれたんだ。

 もしかして、また……だったりして? 肉ならなんでも食うだろ、てまた言われちゃうのかな、なんてフフッと思い出し笑いしながら、そっと中を覗く。そして――ハッと目を見開いた。

 そこに入っていたのは――。


「コンビニのシュークリーム、好きだっただろ」


 陸太はさらりとそう言い残し、私の横を通り過ぎていった。

 うん、大好き――て、たったそれだけの返事さえ私は出来なかった。

 ただ、呆然として、その袋入りのシュークリームを見つめていた。パリっと固い薄皮の中に、ぎっしりとカスタードクリームが詰め込まれた手のひらサイズのシュークリーム。もう何度、食べたことだろう。見ているだけでその味が口の中に蘇ってきて、とろんと顔が蕩けるように綻んでいく。


 ああ、もう――て、肩から力が抜け、降参するようにため息が漏れていた。

 そして、その瞬間、分かった気がした。陸太の何が変わったのか。


 ぐっと胸の奥から湧き起こってくるものがあって。レジ袋の持ち手をぎゅっと握り締めながら、つい、「へへっ」て笑っていた。


「そっか――甘くなったんだ」


 クスクス笑いながらそう呟くと、「何が?」と陸太が怪訝そうに言う声が背後から聞こえた。


「シュークリームか? 味、変わったのか?」


 身を翻し、私も彼の後を追うように部屋の中に戻る。クローゼットの前でバッグを下ろす彼の後ろ姿があって……もう我慢できなくなった。

 うずうずとしながら彼の背後に忍び寄り、


「陸太だよ」


 悪戯っぽくそう言って、後ろから飛びつくようにぎゅっと抱きついた。 


「ぬわ……!? な……なんだ、突然!?」

「ごめん、ごめん」


 謝りつつも、だらしなく緩んでしまう口許はどうしようもなく、彼のお腹に回したその手も離す気はさらさらなかった。

 それどころか、もっと強く抱きしめたいくらいで。

 ぴたりと隙間もないくらいに体を合わせていても、満たされない自分がいる。Tシャツ越しに感じる彼の熱が恋しくてたまらない。たった数枚、身に纏った衣服の距離さえもどかしくて、もっと近づきたい、と思う。今すぐ、彼の体温を、感触を、鼓動を、肌で感じたい。彼に触れたい。そして、触れて欲しい……と思ってしまう。

 だから――。


「そうだ。いっそのこと、一緒に入ろっか」


 ハッと思いつき、私は彼から離れて高らかに言い放った。


「一緒に……入る? 何に?」


 困惑気味に振り返った彼に、私はフッと微笑み、


「お風呂。一緒に入ろ」


 陸太は目を点にして、しばらくぽかんとしてから、「は……!?」と体ごと私に向け、ガタン、と思いっきりクローゼットの扉に背中を打ち付けた。


「ふ……風呂って……いや、そんな……いきなり……!? てか、もう入ったんじゃ……」

「陸太となら何度でも入る。別腹ならぬ……別風呂?」

「そんなの無ぇよ――じゃなくて……なんで、急に? さっきは、『待ってる』って……」

「待ちきれなくなっちゃった。陸太がシュークリーム買ってくるから」

「俺のせい!? って、シュークリームと風呂になんの関係が……!?」

「なんのって……」


 いや、待って。

 陸太こそ、なんの話をしてるんだ?

 ふと、怪訝に思って、小首を傾げるようにして陸太の顔を覗き込む。

 なんだろう、この反応? 確かに、いきなりだったし、驚くのも無理はないだろうけど。それにしても、動揺しすぎだ。


「もしかして……お風呂はまだ厭だった? ごめん。それなら待つから、気にしないで――」

「い……厭なわけないだろ!」


 私の言葉を遮るようにして、陸太はくわっと目を剥き、力強い声で言い放った。――かと思えば、すぐに「ただ……いきなりすぎるというか……心の準備が……」と勢いを失くし、おどおどとして口ごもる。

 やっぱり、変だ。

 つい、疑ぐるように見つめてしまう。

 厭じゃない、とは言ってくれたけど。躊躇っているのは明らか。

 なんで? なにをそんなに……としばらく彼の様子を観察して、ふいに気づく。


 すでにお風呂上がりみたいに真っ赤に染まった顔に、あたふたと心許無く泳ぐ視線。困り果てた表情で、たどたどしく言葉を詰まらせる様は迷子の子供のよう……。


 そんな彼の姿に見覚えがあった。ずっと、ずっと……もう昔のように思える頃、こんな姿をよく見ていた。

 甘いようで、ちょっぴり塩っぱいような。思い出すと、そんな味が心の中に沁み渡っていくような感じがした。郷愁――とでも言えばいいのかな。愛おしくて懐かしくて……でも、ちょっと寂しい。

 そういえば、いつからだったんだろう。こういう彼を見なくなったのは……。


「陸太」つい、にんまりと微笑みながら、ぐっと彼に顔を寄せていた。「もしかして――照れてる?」

「は!? て……照れてねぇよ!」


 ぎょっとして慌てふためく姿は、図星です、と言わんばかり。私は確信を得て、「そっか、そっか」と笑みを深めて噛みしめるように頷いた。


「お風呂はまだ、照れちゃうか」

「だから……別に照れてないって……!」

「じゃあ、一緒に入ろ」


 ケロリとして言うと、途端に陸太はおもしろいほどに「うっ……」とたじろいで視線を逸らす。


「いや……だから……」

「顔、真っ赤だよ」

「赤くねぇし!」

「ごまかし方が小学生」


 思わず、ぷっと吹き出しながら、きゅうっと胸の奥を抓られるような感覚がして、「かわいいなあ」てニヤける口から本音が漏れる。

 すると陸太はハッとして私に視線を戻し、「だから……!」とムキになって声を荒らげた。


「『かわいい』って言うな、て何年言えばいいんだ!?」

「ごめん、ごめん。つい、さ――」


 宥めるように言い、私はレジ袋を右の手首にかけ、陸太の顔へ両手を伸ばす。真っ赤に染まってまだじんわりと熱を帯びるその頬をそっと両手で包み、


「やっぱ、私、陸太が好きだなぁ、て思って」


 胸の奥からこみ上げてくる気持ちのまま、ニッと笑って私は言った。



※宣伝で恐縮ですが、新作を開始しました。本作とは違い、かなり熱苦しい主人公となっていますが、もしよろしければ、そちらもお読みいただければ嬉しいです。


『幼馴染失格!!』

https://kakuyomu.jp/works/16816452218424923743


放っとけない系ヒロイン(同い年)と、放っといてくれない系ヒロイン(年上)。二人の『幼馴染』に翻弄されるラブコメです。

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