七章

第1話 五月病

 陸太くん――。

 もうすっかり忘れかけていた、あまりに懐かしい響きだった。


 あのあと、すぐに樹さんから「着いた」という連絡が来て、香月は席を立った。

 樹さんの車まで送る、と言っても、やはり香月は「ダメ!」と制してきて、何やらひどく焦った様子でものすごく嫌がられ……俺は渋々、香月が車に乗り込むのを二階の窓から見送った。

 そのあともしばらく、『陸太くん』と呼んだその声が耳に残っている感じがして、その余韻に浸るように俺はカフェに残ってぼうっとしていた。

 そうして、そういえば――と思い出していた。

 『カヅキ』だって最初から王子様だったわけじゃない。

 うすぼんやりだけど、かすかに覚えてる。初めて会った時、『カヅキ』はなよっちくて頼りなくて、内気そうな奴だった。最初のころは、練習前の空き時間も皆の輪に入っていけなくて――それが元々の性格だったのか、男のフリをし始めたばかりで緊張していただけだったのかは分からないが――『陸太くん』、『陸太くん』て俺にくっつき回っていて……。そんな『カヅキ』の手を引いて、俺はよく皆のところに連れて行ってやっていたんだ。

 それが……あっという間に背丈も俺を追い越して、ホッケーだって誰よりもうまくなって、皆の中心にいるようになって、俺が女性恐怖症になってからは、香月が俺の腕を引っ張っていくようになっていて……。

 立場が逆転していたんだ。


 そんなことを思い出していたら、次から次へと芋づる式に遠い日の記憶が引きずり出されてきて、ヴァルキリーのころからの思い出が走馬灯みたいに脳裏を駆け巡るようだった。それで……気づく。記憶のどこを見たって、『姿』は違えど香月が居た。時の流れとともに目まぐるしく変わる光景の中で、それだけは、ずっと変わらなかった。

 そうして、あれやこれやと過去に思いを巡らせて……気づけば、俺の高二のGWゴールデンウィークは終わっていた。

 何も黄金なものなど何もなかった。あったのは、色あせた記憶だけ……なんて。

 いや。なんもうまくねぇわ。

 ふっと自嘲するように鼻で笑ったそのとき、


「センパイ!?」


 突然、甲高い声が隣から飛んできて、俺はぎくりとして振り返る。


「は……はい!?」

「聞いてました?」

「聞いてませんでした」

「ですよね」


 西校舎は相変わらず、朝でも薄暗く、どんよりとしていた。ここだけ一足先に梅雨でもきたみたいに湿っぽい感じすらする。そんな中、すぐ隣――階段の一段目で俺と並んで座る絢瀬は、場違いなほど煌々と輝いてすら見えた。そこだけ晴れ間が覗いているかのような……。

 しかし、その表情は曇り曇って、不機嫌そのもの。幼げな印象の顔を惜しみなくムッとさせ、俺をジト目で睨みつけてくる。


「どこから聞いてなかったんですか?」


 多分、最初からだろう。話題がなんだったのかさえ分からないんだから。

 視線を泳がせ「ええと……」と苦笑すると、


「もういいです」ぷりっといじけたように言ってから、絢瀬は怪訝そうに俺を見つめてきた。「どうしたんですか、ぼうっとして。五月病ですか?」


 五月病……か。言われて、なるほど、と思ってしまった。

 体がだるくて、なんのやる気もでない。魂……とでも言うべき、何か大事なものが体から抜け出てしまったようで。まるで、自分がもぬけの殻になってしまったみたいな虚無感だけがあった。

 ただ……そうなったのは、GWが始まる前のの終わりで。もっと、詳しく言えば、香月の背中を見送ったあのときからだ。

 別に、五月に罹るから五月病、てわけでもないんだろうけど……と心の中で呟きながら、


「五月病……ではなさそうだわ」


 冷笑しながらそう答え、俺は視線を落とした。

 後悔しているわけじゃない。『いい友達』として、香月の傍にいることを選んだこと。香月が護と(おそらく二人きりで)会うことを知って、「行くな」と言わなかったこと。

 正しいことをした、という実感はある。――でも、逆に言えば、なかった。あと残っていたものと言えば、どうしようもない虚しさだけだ。


「もしかして」黙り込む俺の隣で、ふいに絢瀬が怪訝そうに口火を切って、「何かありました? GW中に……」


 思わず、ぎくりとして振り返ると、絢瀬が頭を傾けるようにして俺の顔を覗き込んでいた。

 その表情は真剣そのもので。じっと見つめてくる瞳は、相変わらず、ぞくりとするほど澄み渡り、その奥に何か宝石でも隠されているんじゃないか、と思ってしまうような煌めきを宿している。まるで、全てを見透かされているような気さえして……。

 だからだろうか。

 そんなわけないのに。まさか……全部、絢瀬は知ってるんじゃないか、なんて思えてしまった。

 言い知れない緊張感を覚えながらも、「何かって……?」とごまかすように聞き返すと、


「ねえ、センパイ」と、意味深に囁くように絢瀬は切り出して――ニコリと晴れやかに笑った。「モナちゃん、元気ですか?」

「は……?」


 モナちゃん……? なんだ、いきなり?

 今朝は、ダブルデートの誘いでもなかったはずだ。学校に着くなり、『訊きたいことがあるので、今から会えませんか?』と絢瀬からLIMEが来て、こうして呼び出されたのだ。

 訊きたいこと――が、まさかモナちゃんの健康状態とは思えないし。

 なぜ、GWの話からいきなり、モナちゃん?

 話が読めずにぽかんとしていると、絢瀬はため息混じりに微苦笑して、


「モナちゃんと最後に話したの、いつですか?」


 とやんわりと訊ねてきた。

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