第9話 ありがとう

「いい加減にしろ、カブ!」


 護はぴしゃりと叱りつけ、カブちゃんの背後からその襟首をむんずと掴むと、香月から引き離した。


「お前もだ、香月」と護は言いづらそうに渋面を浮かべつつ、香月を睨む。「もう子供のときとは違うんだ。少しは意識してくれ。――こっちが困る」


 その瞬間、香月の顔色ががらりと変わるのが分かった。涼しげな笑みが凍りついたように強張ると、


「そっか、ごめん」としゅんとして俯いた。「つい、癖で……」


 ぽつりとこぼした香月の言葉に、冷水でもぶっかけられたかのようだった。一気に血の気が引くように冷静になって……納得してしまった。

 そういえば――カブちゃんの無茶振りに、いいよ、と答えた香月の横顔は、悠然として余裕たっぷりの『王子様』のそれで。逆ナンしてくるオネーサンたちを巧みに躱していた『カヅキ』の顔だった。この前、映画館でナンパされてうんざりとしていた横顔とはまるで別物の……。

 癖……か。そうなんだろうな。十年もやってきたことなんだ。もう体に染み付いてるんだろう。条件反射、とでも言えばいいのか。香月の中できっとスイッチみたいなものがあって、それが入ると『男』になってしまうんだろう。たぶん、今回は……カブちゃんの出現で。

 チームの皆に嫌われるのが怖くて、女だと明かせなくなった――て、香月は前に言ってた。護は小学生のときに気づいていたらしいし……今まで、香月がちゃんと自分の口で女だって告白したのは俺だけだ。そんときの俺の反応は……我ながらひどいもんだったし。そりゃ、いきなり、何も知らないカブちゃんと出くわしたら、焦って男のフリもでるよな。あっさり、女だと明かせるわけもない。

 怖い――よな。

 事実、今も香月は張り詰めた表情で俯いたまま。どう言い出したらいいのか必死に考えているのが、手に取るように分かった。

 その横顔を見ていると……『ごめん』て膝を抱いて泣きながら言った香月の苦しげな声が頭の中に蘇るようで、胸が締め付けられる。

 あのときは、泣いている香月を前にどうしたらいいかも分からなくて途方に暮れた。昔は……それこそ、カブちゃんとか皆と、試合のあとに抱き合って泣いたりもしたのに。その震える肩に手を伸ばすことも躊躇われて、俺はただ見ていることしかできなかった。


 でも、今は――まだ、どうなのかはよく分からないけど、どうしたいか、くらいは分かるようになってきたんだ。

 だから……と、俺は震える手をごまかすように、拳を握りしめた。


「なんだよ、この空気?」


 すぐそこから、困惑するカブちゃんの声が聞こえてきていた。


「俺、はしゃぎすぎた? いや、でも……俺、昔からこんな感じだったよな? 肉まんアタック、とか言って……よく皆にタックルしてたよな?」

「ああ、まあ……してたけど……てか、してたな。香月にも……」

「なんだよ、護? 顔、ひきつってるぞ」

「とりあえず、座っとけ」

「は? なんで、座んの? 全然話が読めないんだけど」


 何やらもめ出した二人を横目に、俺はふうっと息を吐き出し、

 

「香月」と握りしめた拳を緩め、香月の肩に手を伸ばした。「大丈夫か?」


 ぽん、と軽く手を置いた瞬間、香月は弾かれたように顔を上げ、こちらに振り返った。

 目を見開き、「え」とこちらをまじまじと見てくる様は――その驚きようは、さっき、カブちゃんに抱きつかれたとき以上で、こっちがぎょっとしてすぐに手を離していた。


「あ、いや……」と急に照れ臭くなって、つい、視線が泳ぐ。「言いづらいなら、俺が……カブちゃんに話そうか、て思って」


 すると、ややあってから、あ、と弱々しい声がして、


「大丈夫。心配させたね、ごめん」と香月がため息つくのが聞こえた。「ちゃんと自分で言うよ。自分で言うべきことだから」

「そう……か。そうだよな」


 確かに覚悟を感じさせるような落ち着いた声だった。あの夜、『もう会ってもらえないかと思ってたから』て、声を詰まらせながら俺に言ってきたそれとは全く違っていて……少しホッとした。


「でも――陸太」


 ふいに、内緒話でもするような掠れた声に呼ばれて視線を戻せば、


「ありがとう」


 ばちりと目が合った香月は、そう言って微笑んだ。それは、痛々しいほどに不恰好な笑みで……。嬉しそうに見えるのに、今にも泣き出しそうな……まるでアンバランスな笑顔に、どうしようもなく胸が軋んだ。その音がはっきりと聞こえるほどに。

 そうして呆然としている間に、香月は顔を前に向き直し、「カブちゃん」と少し緊張が伺える硬い声で切り出していた。


「ずっと、言いそびれちゃったんだけど……私、女なんだ。十年も騙してた。ごめん」

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