第2話 鬼ごっこ

 すっかり、その『脅威』を忘れていた。

 彼女の周りには人が集まり、ざわめき立っている。そうして人だかりを背負う姿は様になって、もはや貫禄のようなものを感じさせる。それだけの群衆の中にいても、決して埋もれないその存在感。きっと、これをカリスマ性というのだろう。

 集まる視線を物ともせず……いや、もはやスポットライトの如く当然のように受け止めて、彼女は一段一段ゆっくりと階段を降りてくる。


「校舎のどこかで出くわすかなーて思ってたんですけど」と、『妖精』はくんと小首を傾げて、甘える子猫のような愛らしい声で言う。「センパイ、引きこもりですか? 全然見かけないんだもん。直接、教室に探しに来ちゃいました」


 ワンチャン、遊佐……の可能性も考えたが、その幼げな顔立ちの中、やけに大人びた鋭い眼光を放つ瞳は、しっかりと俺を見据えていた。その輝きに吸い込まれるようにして目が合って、それだけで、全身が凍りついたように動かなくなる。視線すら逸らせない。蛇に睨まれた蛙――まさに、そんな気分だった。

 あと三段というところまで俺との距離を詰めると、『妖精』はふいに自分の顎に人差し指を当て、


「私のこと、覚えてます?」

「お――覚えてません!」


 ぎくりとして、目が覚めたように声が飛び出していた――と、ともに、体に自由が戻った。慌てて俺は身を翻し、きょとんとする遊佐を押しのけるようにして階段を駆け下りる。


「人違いだ!」


 それだけ言い残し、まとわりついてくるような好奇の視線を振り払うように、俺はがむしゃらに廊下を走った。

 冗談じゃない。

 覚えてる、なんて馬鹿正直に言うかよ。あんな人目のあるところで、保健室での一件を口にされた日には……それこそ、ホラー映画のごとく女子の悲鳴が辺りに響き渡っていたことだろう。その後、残りの高校生活、どんなあだ名で呼ばれることか。想像しただけでゾッとする。

 とにかく、身を隠さないと……と必死だった。自然と、足は人気のない方へと向かって、家庭科室や調理室などがある西校舎に辿り着いていた。

 日当たりも悪く、どんよりと陰鬱な雰囲気漂う廊下を息を切らしながら歩き、とりあえずここまで来れば大丈夫か、と足を止めるなり、


「センパーイ!」


 そんな甲高い声が背後からして、「ひい」と悲鳴が漏れる。慌ててまた走り出し、階段のほうへと向かった。って、なんだよ、これ。悪夢かよ。


「なんで、逃げるんですかー!?」


 逃げるだろ! と言い返したいのを押し殺し、俺は一階まで一気に階段を駆け下りた。いっそのこと、もうこのまま帰ろうか――なんて考えがよぎった、そのときだった。


「司馬ヴァルキリー、背番号63番、センター、笠原陸太!」


 懐かしいような……そんなアナウンスが階段に響き渡って、昇降口のほうへ向かいかけた足がはたりと止まった。

 え――と、思わず、振り返ると、

 

「やっぱり、人違いじゃなかったですね?」


 ふふっと笑って、暗がりの中、『妖精』が軽い足取りで階段を降りてきた。五段目まできて「よっ」と冗談っぽく言うと、スカートを靡かせながらふわりと飛ぶ――その様に、ざあっと記憶の中の映像が呼び起こされるようだった。

 スケートの刃に削られ、彼女の周りに舞い散る氷の塵は、まるでダイヤモンドみたいに輝いて見えた。その中を、生き生きとした笑顔で跳ぶ彼女の姿はまさに『妖精』みたいで。彼女が跳ぶと、重力も、時間さえも存在しないような、そんな幻想的な世界に引き込まれるようだった。

 初めて、彼女が舞うのを見たときの衝撃が、まだ胸に残っている。心臓に杭でも打たれたような痛みが走って、ずっと、その姿を見ていたい、と思った――。

 物音一つ立てず、静寂の中に降り立った彼女はゆっくりと顔を上げると、自信に満ち溢れた煌めく瞳で俺を見据え、ふっと微笑んだ。


「同じスケート場で練習してた絢瀬セナです。覚えてません?」


 流麗とした声が、電気さえも点けられていない暗い廊下に響いた。

 覚えてません? って、いや。なんで、俺を覚えているんだよ。保健室で、ゲームの女の子とイチャついていた変態なら分かる。でも、なんで、ホッケー時代の俺を……? しかも、ポジションや背番号まで?

 驚愕して声も出ない俺に、『妖精』はぐっと近寄ってきて、


「突然なんですが」と俺の顔を覗き込むようにして切り出した。「笠原先輩、ダブルデートしません?」


 は……?

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