第9話 保健室で君と二人きり
「ちょっとだけ、始業式に顔を出してくるわね。すぐ戻るから」
ベッドを囲うように吊り下げられたカーテンの向こうから、看護教諭の本田先生がそう言うのが聞こえてきた。やがて、パタパタと去っていく足音と、扉を開閉する音がして、保健室は不気味なほどに静まりかえった。
純然たる仮病だったのだが……嘘の症状を取り繕う必要もなく、本田先生は現れた俺をまっすぐベッドに案内してくれた。よっぽど、病人のような顔色をしていたのだろう……。
仰向けになって、ぼうっと天井を見上げながら、そういえば……と思い出す。――こうして、保健室のベッドに寝るのは中二以来だ。あのときは、女子にぶつかって(といっても、ちょっと肩が当たっただけなんだが)貧血起こして保健室に運ばれて……金縛りにあったっけ。それ以来、保健室が苦手になった。小中高と養護教諭はいつも女性だし……。どんなに気分が悪くなろうと、俺は頑なに保健室を避けてきたのだ。
しかし……と俺はぐっと力を込めて瞼を閉じる。
今回は別だ。なんとしてでも、始業式に出るのを避けなければならなかった。『妖精』と出くわさないために。
『妖精』――その単語が脳裏にぽんと浮かんだだけで、ぶるっと寒気がして全身が粟立つのを感じた。
ありえない。
なんでだ……なんで、『妖精』がうちの学校に!? 俺の女性恐怖症の原因になった女と……俺にトラウマを植え付けた張本人と、これから二年間も同じ校舎で過ごすのか?
同じクラスの女子に話しかけられただけで、動悸息切れ目眩のフルコースだってのに……『妖精』に出くわしたら、どうなることか。俺自身も想像つかねぇ。
とりあえず、始業式は回避したけど……これから、体育祭に文化祭、クラスマッチ――と、縦割りイベント目白押しだ。委員会で一緒になることだってあり得るし、登下校中にばったり出くわすことも考えられる。昼休みの購買だって危険だ。同じパンを取ろうとして手なんて触れようものなら、泡噴いて倒れる自信がある。
ああ、考えただけで胃が痛くなってきた。
とにかく……今は、落ち着こう。保健室のベッドで悶々と考えても仕方ない。とりあえず、こういうときは――慰めてもらうのみ、だ。
『おはよう、リクタくん!』
シンとした保健室に、そんな天使の声のごとき麗らかな声が響いた。途端に、凝り固まっていた顔中の表情筋がほころんでいく。
「おはよう、モナちゃん」
持ち込んでいたスマホを両手でしっかり握りしめ、俺は画面に映るカノジョに微笑んだ。
普段、学校でモナちゃんと話すことなんてまず無い。たとえイヤホンをしようと、校内で『ラブリデイ』を開く度胸など俺には無い。女子はもちろんのこと、モナちゃんのことを知っている遊佐だって、こうして実際にモナちゃんと会話してる俺の姿を見たらドン引きすることだろう。なんの偏見もなく、一緒になってモナちゃんと会話をしてくれるのなんて、きっとカヅキくらいで……。それが分かる程度には、俺もまだ自分を客観視できていた。
とにかく――だから、貴重だった。平日の日中しか見れないモナちゃんのセーラー服姿が!
『朝からリクタくんと話せるなんて……嬉しいな』
ほんのり頰を赤らめ、身体をもじもじとさせながら、そんないじらしいことを言っちゃうモナちゃんに、俺はジーンと骨の髄まで震えるのを感じた。可愛い……尊い……癒される……!
『妖精』のことなんて、たちまち頭から吹き飛んでいた。
「俺も……モナちゃんに学校で会えるなんて幸せだよ。ピンクのセーラー服もすげぇ似合ってる」
――と、その瞬間だった。視界の端で、隣のベッドとを仕切るカーテンがジャッと勢いよく開かれるのが見えた。
え、と見やれば、開かれたカーテンの向こう――誰もいないと思い込んでいたそこに、キラキラ眩いほどの白いブラウスにチェック柄のスカートを履いた少女が立っていた。
はだけたブラウスの胸元からのぞくほっそりとした鎖骨に、短いスカートから伸びるきゅっと締まった太もも。艶やかな長い黒髪が、華奢な肩を撫でるようにさらさらと滑り落ちていく。
まだ幼さの残る顔立ちの中、じっとこちらを見下ろす眼差しは落ち着いていて、その澄んだ瞳は聡明そうな輝きを放っていた。
小柄で華奢で、か弱い印象がありながらも、どこか芯のある強さを感じさせる。あのころみたいに――。
「ごめんなさい……盛り上がってるとこ、お邪魔して」と彼女は青ざめた顔をひきつらせ、ぎこちなく微笑んだ。「でも、全部、筒抜けだったんで……我慢できなくて」
ドカン、と体の中で何かが噴火したみたいな……そんな衝撃が脳天まで突き抜けた。血管をマグマでも流れていくような熱が全身を駆け巡り、俺はいてもたってもいられずにベッドから飛び降り、脱兎のごとく――逃げた。
後ろから何か言われたような気もしたが、無視して保健室を飛び出し、そのまま、始業式の最中で人気のない校舎を三階の教室までがむしゃらに駆け抜けた。
最悪だ。
まさか……なんで? なんで、保健室で出くわすんだよ!? しかも、よりにもよって、『妖精』にモナちゃんとの会話を聞かれるなんて……!?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます