名のない研究所
空付 碧
第1話 感覚を研ぎ澄ます
空の青が薄くなり、風向きが代わって肌寒くなり始めました。
私は、片田舎にある二階建ての、白い四角な建物へ向かっていました。
電車を降りて、住宅街を抜け、一方通行の坂道をのんびりと上ります。日傘をささなくても日は山の向こうへ落ちていて、安心して歩いていくことができました。
もうすぐ夕ご飯の時刻です。カラスが4羽、南の山の方へ飛んでいきます。おうちに帰るのでしょう。飛んだ先に、三日月がありました。私は初めて気づいて、彼もまた西を目指して巡っているのかと、会釈をしました。
坂を上るにつれて、手入れされずに伸びた蔓や、エノコログサの群生が、あちこちに見えます。空き家には、容赦なく植物が葉を伸ばし花をつけていました。
坂は気づけば階段に変わっています。
石積みの隙間に、茶色い土とコケが生えていました。息が上がってきます。建物は目の前ですが、段の低い階段を、ずうと登らねばなりません。
ツクツクボウシが最後だと言わんばかりに鳴き叫び、反対のススキ坂ではマツムシが涼しい声をあげていました。
白い建物は、近隣の木々とともに、夏蔦に飲まれそうになっていました。
私は、わぁと素直に声を出して、中に入りました。一階には何も無いので、葉の落ちている外階段を上って真っ直ぐ二階を目指しました。
「先輩、パンプキンパイを持ってきました」
「御苦労」
私は、東の窓の元で、机に向かった先輩に声をかけました。
先輩というのは大学時代の頃の呼び名であって、今は彼の名を呼んでもいい気がしますが、彼もまた私を後輩と呼ぶので、私は後輩をやっています。
「もう秋らしくなってきましたね」
「何か見つけたのか?」
先輩はこちらを振り向かずに聞きます。私は、近くの書類が積み重なった机に寄りかかりました。
「体感温度と、空の高さと、オシロイバナですね。あとはセミが声を振り絞っているとか、マツムシの声が大きいとか」
「うむ、いい発見だ」
先輩は顔を上げて、細い腕を延ばしました。目の前の窓を開けます。ふわりと埃っぽい部屋に空気が混じりました。
先輩は一つ口笛を吹きました。ピュー、と吐き出された息に乗って、またスワリと風が入ってきます。
「うむ、確かにいい風だ」
嬉しそうに先輩は言います。何度かの口笛に応えて、風は得意そうに宙返りをして去っていきました。濃ゆくなる前の夕方の青は、すうと先まで見えました。
「先輩は結局のところ、何を研究なさってるんですか?」
「なんでもだ。興味があれば、すべて触る」
先輩の後ろ姿の隙間から、蛍石の原石が転がっているのが見えます。
私は側にある天体望遠鏡に目をやりました。
「どこまで行くんですか」
「行けるところまでだ。好奇心が死ねば未来が色褪せるだろう」
愚問に答える様子で、先輩は振り返ります。
私はパンプキンパイをカゴから出して、フォークを添えて渡しました。
「先輩が求めるものはなんですか」
「お前は質問ばかりだな。何が言いたい。直球で言え」
フォークにパイを突き刺して、先輩は口に運びました。
黄色くて甘いペーストが、なんとも美味しそうでした。
「……多分疲れていたんだと思います」
「そうだな。馬鹿げた質問ばかりだ」
「オシロイバナって秋口に咲くんですね。てっきり春かと思っていました」
オシロイバナは小学生の頃、種を摘んではすり潰して、コンクリートに白い線を入れて遊びました。花の前を通り過ぎる時、ローズヒップのような、ハイビスカスのような、甘い香りが漂って久しぶりに花の香りを楽しみました。
「ずっとコンクリートと大人しい街路樹ばかりに囲まれて、よく分からないですが、とても窮屈で退屈で悲しくなっていたのだと思います」
「そうか。オシロイバナすら見落とすようじゃ、余っ程生きていない」
先輩はにやりと笑います。パンプキンパイは半分になっていました。
「お前の言った悲しいもあながち間違っていない。哀愁というやつだ」
「少し違う気がしますが」
「ヒトは、生きていることを忘れやすい。生き物を管理し、無機物に身を任せすぎると、息をしていることを忘れてしまうんだ。お前は取り戻せただろうか」
私は窓の外を見ました。ススキ野原の先に。夏蔦の茂った小さな山と、光を灯し始めた街があります。空の色は、夜の前の水色で、前より澄んで見えました。
「まぁ、そうですね。これだけ草や虫に囲まれたら、肌に刺さるほど生を感じます」
「そうだ、生きているんだ」
先輩が身を乗り出しました。
瞳が輝いていて、この人は生き物と生きるのが好きなんだと、頷いてしまいました。
「ヒトは生きる意味を求めたがる。私だってそうだ。けれどそれ以上に、60兆個の細胞が、各々生きるため働いていることを、忘れてはならないんだ。植物は素直に、舗装された地面に根を張る。元は、彼らが蔓延っていて、切り開いたのがヒトだから不思議じゃない。なぁ、生きるとはそういうことじゃないか」
ふわりと風が入りました。一番星は見えませんでしたが、視覚や聴覚よりもっと鋭いアンテナが外の情報を拾おうと全身の神経が開いていました。先輩が大声で笑いました。
「そうだ、もっと集中しろ。生きることは奪い、残し、感じることだ。何よりの癒しを、捨ててはいけないぞ」
「せんぱい、なんかへんです」
「慣れだ。いつかは気にせずとも生きていると常々思えるようになる」
蛇の来る前に先輩はピュウと笛を吹きました。
ふわりと鼻を風が撫でて、私の瞳に星が散りました。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます