第39話 少しも癒えてなんかない

 帰宅。決戦の時だ。

 大げさな表現ではない。なぜなら、これが失敗した場合――

 若菜はきっと、自ら命を絶つだろう。

 その際、今度こそ三澄は止められない。止める術がない。彼女の、文字通り命を懸けた選択を、受け入れる以外に道はない。

 胃を捻り上げられている気分だ。タクシーの中であれだけそわそわしていた気持ちが、今は重圧で悲鳴を上げている。コンビニで買ったサンドウィッチの味がしない。

 それでも、無理矢理食べる。ミルクティで流し込むようにすると、甘さが染み渡った。


「あんま食欲ないか?」

「いえ……」


 三澄の対面には、二口ほど齧られたサンドウィッチ片手に、固まっている若菜がいる。三澄とて食欲はないが、若菜は更にダメらしい。


「食べられなさそうなら、置いといたらどうだ? 冷蔵庫に入れときゃ、今日一日くらいはもつだろ」


 しかしながら、若菜には躊躇いがあるようだった。それが何に起因するものなのか、三澄には分からない。

 ただ、なんとなく察せられるものもあった。

 三澄の怪我の件が落ち着き、再び自身の死と向き合う時間が来た。が、一度この世から離れかけた気持ち――覚悟が、今、行き場をなくしている。再び心を定めるには、相応の準備が必要だろう。


「じゃあ、まあ、とりあえず、早速だけど、話を始めちゃってもいいか?」

「――はい、分かりました」


 若菜は神妙に頷くと、持っていたサンドウィッチを机の上に置き、居住まいを正した。


「まずは……そうだな、若菜さ、一個勘違いしてるかもしれないから、先に言っておくけど、俺は吸血種のこと、恨んでないよ」

「どういうことですか?」


 若菜が眉をひそめる。三澄の真意を測りかねている様子だ。


「律の言ってたこと……、俺の両親が吸血種に殺されたっていうのは事実なんだけど、その、なに、一方的に被害者ってわけじゃないっていうか……。多分、俺の両親も、吸血種を何人か殺してる」

「………………へ?」


 あまりに予想外だったのか、若菜の口から呆けた声が聞こえた。


SITシットって分かるか? 東京の方の呼び名で、うちの県では違うらしいんだけど、警察の中に対テロなんかを目的とした部署があってさ。俺の両親はそれの、吸血種犯罪を担当するところに属してた」


 詳細を三澄は把握していないが、対吸血種特殊装備なんてものが配備され、刑事と機動隊員を合わせたような職務内容だと聞き及んでいる。


「父さんも母さんも忙しくて、しょっちゅう家を空けてたんだけど、時々さ、すげぇ沈んで帰ってくることがあったんだ。最初は二人の同僚か何かに不幸があったのかって思ったけど、それにしては複雑そうというか、悲しいってだけじゃない何かがありそうでさ。

 それで聞いてみたんだけど、ぼかされて、結局よく分かんなくて。でもさ、隠すってことは、そういうことだろ? それに……、若菜の両親だって、実際に殺されてるんだ。父さんたちの同僚、いや、元同僚に。

 だから、俺は恨めない。悲しかったけど、恨むのは筋違いってもんだろ」


 殺してきた相手の仲間に、今度は自分が殺される。互いの正義のために、双方に犠牲が生まれる。あまりに悲惨な因果応報だ。それを恨むとなれば、もはや死体に鞭打つ行為に等しいだろう。

 だからこれは、誰でも納得できる、人道に即した当然の思考なのだ。

 しかし、若菜の曇った表情が更に陰る。


「おかしいです。そんなのはおかしい。恨みとか憎しみって、そう簡単に割り切れるものじゃないはずです。理不尽で、意味不明で、どうしようもないもののはず」


 全くその通りだった。感情は、表には出ずとも殺せはしない。三澄は、自分の論理が始めから破綻していたことに気付いた。どうしてこんな酷い勘違いをしたのか。


「それなのに……。あなたは自分の両親のこと、何とも思ってなかったんですか?」

 それでも、続くこの言葉だけは許せなかった。三澄は急速に血が巡るのを感じた。

「そんなわけねぇだろ! 大好きだったよ! じゃなかったらこんなに苦しんでねぇ!」

「なら! 殺したいくらい憎むのが普通でしょ! 少なくとも、同じ吸血鬼である私を助けようなんて思わないはずです!

 そもそも、この家はおかしい! なんでこんなに物が、あなたのご両親がここに住んでいた痕跡がないんですか! 私のために掃除をしたっていっても限度があります! 仏壇の一つもないなんて!」

「それは……」


 言葉を失った。仕舞い込んでいた罪の意識が、ズレた蓋の隙間からこちらを覗いている。

 この家、少なくとも見えるところに、三澄の両親の痕跡はほぼないと言っていい。高校生が一人で二階建ての一軒家に住んでいることや、食器等生活雑貨の数、その他様々な違和感はあろうと、三澄の父親と母親という個人に辿り着くことは決してない。精々、誰か他に居た、くらいしか分かることはない。


 唯一、若菜の部屋、元は三澄の母のものだったあの部屋にある家具だけは、生前、三澄の母が使用していたものであるわけだが……。

 中身は全て処分され、個性という個性が全て引き剝がされた、ただの残骸。もはやあれらは、誰の所有物でもない。粗大ごみとしてそこらに放逐されていた方が、まだ幾分か自然だったろう。


「それは、何ですか。ちゃんと話してくれるんじゃなかったんですか?」


 若菜から、厳しい言葉が投げかけられる。彼女は今、ゆらゆらと静かに昇る陽炎のような怒気を放っていた。

 当然だ。若菜は、一生に一度あるかないかの終わりに、水を差されたのだ。

 三澄には、それに報いるだけの答えを示す義務がある。

 三澄は乱れた呼吸を整えると、へその辺りに力を溜めた。


「この家に、二人の住んでた痕跡が消えてるのは――俺がまだ、父さんと母さんが死んだって現実を、受け止めきれてないからだ」


 声もなく、若菜の時間が止まった。


「父さんと母さんが死んで、もう一年は経った。でも俺は、あの二人の気配をこの家から消さないと、まだまともに生活できないんだ」

「……どういう、ことですか?」


 困惑に揺れたまま、若菜が見つめてくる。

 がりがりと、はらわたを掻きむしるようなありもしない痛みが始まった。三澄はそれに耐えながら言葉を紡ぐ。


「PTSD――心の病気みたいなもんなんだけど、俺はそれで、急に体に力が入らなくなったり、眠れなくなったりするんだ。まぁこれだけだとしょぼく聞こえるかもしんないけど、何日も何週間も何か月も続いて、頭がおかしくなりそうだった。いや、実際、当時はおかしくなってた。

 俺が吸血種を恨んでないのは、まだそれだけの余裕がないから、なのかもな」


 自分の体を使った解剖の授業のような気分になりながら、そう弱気に締めくくる。

 今度は若菜が言葉を失う番だった。無理もない。先程まで健康体そのものだと思っていた相手が、蓋を開けてみたら病に体を蝕まれていたのだから。

 とは言え、いつまでも呆けている若菜でもないようだ。何かを閃いたかのように、目の焦点が再び三澄に合う。


「もしかして――去年のテロ事件に巻き込まれたんですか?」


 それは、昨年の四月二日に起こった、吸血種たちによる同時多発自爆テロ。

 大型ターミナル駅舎内にある商業施設が狙われたこれは、死者、重軽傷者延べ一万人超え、行方不明者は今も数百人ほどという、アメリカの九・一一を彷彿とさせる、日本戦後最悪と言われた事件である。


「いや、巻き込まれたわけじゃない」


 こっからだとちょっと遠いしな、と三澄が付け加える。

 このテロ事件の被害に遭った都市は五か所。札幌、東京、名古屋、大阪、福岡だ。ちょっとした遠出となる。入学式を間近に控えた三澄には、入学前課題のせいで、遊び惚けている余裕はなかった。


「ただ、俺の父さんと母さんは、増援部隊として、現地に派遣されてた。そこで……」


 吸血種数名の急襲に遭い、惨殺された。こんなことまで、口にする必要はないだろう。

 第一、若菜自身予想が付いているのではなかろうか。当時、吸血種たちがゲリラにも似た動きを見せていたことは、後々、各メディアで報道され、国民の大半が知っている。


「……ごめんなさい」


 瞠目したままだった若菜が、震える声で呟いた。


「なんで謝るんだよ」

「だって私、なんにも知らないのに、あんな……何とも思ってないなんて、酷いこと……」

「いや、ちげぇよ。悪いのは俺だ。仏壇どころか、お葬式にすら出てないんだからな。誰がどう見たって、ただの親不孝野郎だ。……俺こそ悪かったよ。俺にキレる資格なんかなかった」


 それっきり、二人の間に重たい沈黙が降りる。

 これまでの話で、若菜は疑問を解消してくれただろうか。彼女の信頼を勝ち取ることはできただろうか。

 ……まだに決まっている。あんな曖昧な解答では、説得もクソもない。

 だが、あれ以上答えようがないのも事実。自分の感情なのに、こうも理解不能だとは思わなかった。

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