第38話 結局、なるようにしかならない

「どう……して……」


 目の前の若菜の顔が驚愕に染まっている。


「血が……。痛くないんですか?」

「大した事ない」


 確かに鋭い痛みはある。今も刃を固く握り締めている左手は、その傷口を更に広げているのかもしれない。

 それでも、若菜の首のどこにも傷はない。この手を両断しない限り、彼女に刃は届かない。その事実が、安堵感と達成感をくれる。笑うことなど容易かった。


「なんでですか……、どうしてこんな……。もういいって、もう私には構うなって、言ってるのに……」


 若菜の表情に、怯えか困惑か、それとも両方か、何ともつかないものが混じっている。


「うん、ごめん。でも無理だった。我慢出来なかったんだ。やっぱり俺は、お前に死んでほしくない」

「だからどうして! 吸血鬼の私を人間のあなたが助けてくれる理由は何なんですか!」

「ああ、だから話すよ。それが答えになるかは分からないけど、ちゃんと話す。前は色々と誤魔化しちゃって、ごめんな」


 以前、若菜を幸せにする、なんて豪語したあの日、三澄には覚悟が足らなかった。自分の傷口を開くのが嫌で、中途半端なことをして、若菜を混乱させてしまった。混乱させると分かっていて、それでも上手くいくのではないか、なんて浅はかな期待に賭けてしまった。

 でももう失敗はしない。痛いのはお互い様だ。


「私が聞いてもいいんですか?」


 ナイフを握る若菜の手が緩んだ。意外そうな目を向けてくる。


「ああ。聞いてくれるか?」


 会話の流れからして、まず頷いてくれるだろう。そう思っての確認だったが、どこか自信なさげな若菜の視線が、しばらく宙を彷徨った後、血を滴らせる三澄の左手で止まった。


「……まずは病院に行きませんか? 大した事ないって言ってましたけど、絶対に手当てしてもらった方がいいですよ」

「ああ……、まあ、そうだな」


 一見、ぎょっとするほどの赤の量だ。しかしその実、ほとんどを雨水が占めているのは左手の感覚から分かっている。とは言え、こんな雨ざらしでする話もないだろう。

 三澄は、ようやくナイフから離れた若菜の左手を流れるように握る。


「……え?」

「とりあえず、行くか」


 ナイフをズボンの左ポケットに仕舞いながら、若菜の手を引く。


「いえ、あの……、なんで手を繋ぐんですか?」


 腰を浮かしかけた若菜が尋ねてくる。


「あー、それはあれよ。ちょっと冷えてきたからさ」

「別に逃げたりしませんけど」


 心情が完全に読み切られている。


「嫌か?」

「………………いえ」


 若菜が立ち上がり、手を握り返してくる。顔を伏せていて表情が読み取れないが、嫌がっているわけではなさそう。……多分。


――にしても、病院か。


 若菜と並んで歩きながら、ぼんやりと頭に過る。

 病院にはあまりいい思い出がない。いい思い出がある方が少数であることは置いておいて、まず何よりも病院は、両親の死に最初に直面させられた場所だ。


「――――っ」


 思い出してはならないものを、思い出しかけた。気を抜いていた。

 寒くて、凍えそうだ。


「あのっ!」

「……え? ああ、大声出して、どうした?」

「どうしたはこっちのセリフです! 話しかけても全然反応してくれないし!」


 どうやら何度も声を掛けられていたらしい。切実さをひしひしと感じる。


「悪い。ちょっとボーっとしてた」

「大丈夫なんですか? なんだか顔色が悪いし……。怪我の影響とか」

「大した事ないって言ったろ? このナイフ、そんなに切れるわけじゃないし」


 ナイフの入っている左ポケットをこつこつと指先で叩く。

 これは三澄の家にあったものだ。先端は鋭利だが、刃の切れ味はそこまで。これで首を突き刺そうとも、皮膚や肉をかき切るまでには至らず、苦痛に悶えながらゆっくり死ぬことになるのだろう。

 ……なんとなく、左手の痛みが増してきたような気がした。


 それから、びしょ濡れのまま病院に向かうのもどうか、一度家に帰った方がいいんじゃと思い直した三澄に対し、怪我をしているのに悠長過ぎると反発する若菜だったが、身なりを整えたらタクシーを呼ぶからと言って説得し、家に帰ってきた。

 この頃になると、アドレナリンでも切れたのか激痛が三澄を襲っていた。

 それでもなんとか我慢して止血処置だけしようとするが、出血はなかなか止まらない。


 三澄は仕方なく、タオルで患部を押さえながら身支度を整えた。

 若菜に呼んでもらったタクシーが家の前に到着したのが分かると、保険証の入った財布とスマホ、それから傘を持って外へ出る。

 若菜と二人、タクシーに揺られること二十分弱。ガラス製の自動ドアをくぐった先は、静謐さ満ちる消灯後の病院内だ。

 異世界染みた空間を、持参したタオルを赤く滲ませながら、案内板頼りに歩く。救急外来受付で必要事項を記入し、待合室での数分の待機の後、診察室に通された。

 三十代半ばと見られる男性医師による処置が済んだのは、それから約四十分後。診察室から出ると、待合室で待っていた若菜が心配そうに駆け寄ってきた。


「やー、ぐるぐる巻きだわ」


 包帯が巻かれた左手を見せびらかす。緊張感を解そうと、おちゃらけ気味で言ったのだが、若菜は無言。痛ましげにこちらを見つめるばかりである。


「……大丈夫なんですか?」


 やっと捻り出した言葉は短い。


「ヨユー、ヨユー。見た目はちょっと仰々しいけど、中身は綺麗なもんだって。まあ、その……担当してくれた人が丁寧に縫ってくれたのもあるんだけど」


 繕ってばかりいても、一緒に生活していればすぐにバレる。そう脳裏にチラついて、半端な物言いになった。

 実際、軽傷とは言い難い有様なのだ。片刃ナイフを包むように握ったせいで、親指を覗く四本の指に一直線の裂傷が、人差し指の付け根に刺傷が刻まれている。

 裂傷の方はテープだけで辛うじて止血できたが、人差し指の付け根の方は酷く、縫合が必要だった。

 担当医に、少なくとも二日は動かさないように、なんて言われる始末。


「縫ったんですか」


 罪悪感からか、苦々しげに若菜が呟いた。


「でもほら、一、二週間もすれば綺麗さっぱりだからさ。大した事ないって」


 大した事ない。今日一日で、この文言を何度口にしたのか。もはや言えば言うだけ説得力がなくなっていく気がする。


「……ごめんなさい」


 俯きがちな若菜の小さな謝罪。この怪我に対してだけとは思えないほどの悲愴さを、どこかに内包しているかのようだった。

 少なくとも、三澄の「大した事ない」より、よっぽど重みがある。

 気にするなとか、謝らないでいいとか言うより、むしろ気の済むまで吐き出させた方が良いのではないか。

 だが、それもこの場所では難しい。


「うん、まあ……行くか。帰りにコンビニでも寄ってこう」


 小さく頷いた若菜を連れて、三澄は会計を済ませ、病院を出た。日の出から間もなくということでまだ薄暗いが、雨は止んでいた。天を覆っていた分厚い雲は、今や散り散りに、ひた隠してきた向こう側を晒している。

 水気を帯びた傘を、そのままではひらひらして具合が悪いからと、ネームバンドも締めて、三澄たちは歩き出した。


 近くのコンビニまでは五分とかからない。じめじめとまとわりついてくる空気も、店内に入ってしまえば一掃される。

 さて何を買おうと意気込んだところで、左手が使えない不自由さをみっちり味わうことになった。片手では持てる量に限界があり、カゴを持てば何も手に取れなくなる。若菜の協力なしには、代金の支払いすらできない。

 ほぼ若菜に頼りきりで商品の購入を済ませ、コンビニから出ると、辺りは随分と明るくなっていた。日の出からさほど時間は経っていないはずだが、流石は夏か。


 もう緊急性がないので、徒歩で帰ろうかとも思っていたが、考え直すべきかもしれない。タクシーで片道二十分弱の道を徒歩となると、四、五十分はかかる。必然、汗だくになるわけだが、それは包帯ぐるぐる巻きの左手に致命的だ。

 それに、ここから晴れるのなら、若菜に甚大な負荷がかかることになる。

 診察代含め、たった数時間で一万円を超える出費となるわけだが……。背に腹は代えられないだろう。


 そういうわけで、涼しいコンビニ内で時間を潰し、再びタクシーに揺られる。

 この時になると、三澄はこれまで必死に隠してきたはずの「話」を、さっさと始めてしまいたいと思うようになっていた。一度話すと決めると、案外心が軽やかだった。

 が、ここでは話せない。もどかしい時間だ。

 カビなのかタバコなのか、車内に満ちる独特の臭いが、やけに鼻についた。

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