第28話 不意打ちのお返しは倍で
翌日、三澄はいつもより二時間も早く起床した。学校へ行く支度を済ませ、荷物を持って一階に下りる。まだ暗い。若菜は今もきっと夢の中だろう。
リビングのテーブルに、今日は早めに家を出る旨を記載したメモを残し、朝食も摂らず三澄は外に出た。
現時刻、午前六時二分。眠いわ全身筋肉痛だわ腹減ったわ、ここ最近では最悪の朝だ。暑さ控えめなのが唯一の救いか。
だが、泣き言は言ってられない。これから向かうのは律の家。気を引き締めてかからねば、返り討ちに遭うことは必至だ。
痛みで丸まりそうになる背を無理矢理伸ばし、肩を回し股関節を回し、全身に血を循環させ、歩を進めていく。
そうして、律の家の前までやってきた。
インターホンは、予定通り押さない。三澄は藤林家敷地前の塀の陰、玄関からは死角になる位置にて忍ぶ。油断しきった律がのこのこやってきたところを急襲するのだ。
もはやストーカーの所業だが、三澄がスマホで送ったメッセージを悉く未読無視してくるあたり、向こうも本気。こうして不意でもつかない限り、まともに話をすることはできないだろう。
さっさと仲直りしておけば……、なんて後悔は要らない。さっさと仲直りできないから、こんなことになっている。
三澄は大きく欠伸をしながら、スマホのストアアプリを起動。何か暇潰しに使える物はないかとスクロールしていく。
ふと、背中に硬い感触。そのまま塀にもたれかかると、ざりざりと音がした。シャツに傷がつくかもしれない。が、全く気にならない。対岸の火事のように、その事実は視界の端に霞んで消えていく。
「……っ」
落としかけたスマホを慌てて握り直した。
強烈な眠気だ。今日一日くらい、大丈夫だと思っていたのだが。
やはり昨晩は眠れていなかったのだろうか。正直、記憶にない。気付けば朝で、ベッドの上だった。
でも、寝るわけにはいかない。せめて、律と会うまでは。
だが無情にも、睡魔はそんな意志すら霞みの向こうへと隠してしまう。
三澄はそのままずるずると背中を擦りながら地面に尻をつくと、頭をだらりと垂らした。
零れ落ちたスマホが、三澄の太腿の下で少し跳ね、静かになった。
「……ぇ、……み。…………ねぇってば」
ゆさゆさと揺られるままに、三澄の意識が浮上する。耳元では、聞き覚えのある声が……。
三澄は反射的にその腕を掴んでいた。
「――っ、は、離して!」
声の主が咄嗟に腕を引こうとするが、三澄がそれを許さない。
「て、あぶっ、おちっ、落ち着け、律。一回、一回話をしよう!」
「話すことなんかない! いいから離してよ!」
律が暴れ馬の如く抵抗してくる。
「頼むって律! 大事な話なんだ!」
「聞きたくない!」
「違うんだよ! 誤解なんだって!」
「何が誤解なの⁉ …………もういいのっ、私のことは放っておいてよ……!」
力で勝てないと悟ったのか、大人しくなった律は俯きながらただただ肩を震わせている。
「無理だよ、放っておけない。このまま誤解で関係を終わらせるなんて、絶対に嫌だ」
三澄はただひたすらに、素直な思いを口にする。
「だから頼むよ。ちょっとだけでいいから、俺にチャンスをくれ」
誰かに自分の気持ちを分かってもらいたい時、趣向を凝らすよりも、ただ愚直に、心に浮かんだままの単純な言葉を用いた方が効果的なことが多々ある。
カッコ悪いとか怖いとか、そういう段階はとうの昔に越えた。飾ったり誤魔化したり、そんなことをここ数日繰り返したが、律に対しては無意味だと気付かされた。
それに元々、ただの高校生の三澄にできることと言えば、立ちはだかる壁に、こうして真っ直ぐ立ち向かうことだけであった。
三澄のそんな熱意が伝わったのか、律の震えが止まっている。
「勿論、律が俺のこと心底嫌いになったって言うんなら、流石に諦めるよ。でも、そうじゃないんなら、俺の話を聞いてくれないか」
「……」
律は俯いたまま、沈黙している。
「律?」
不安になる。本当に完全に嫌われてしまったのだろうか。
「…………三澄、腕痛い」
ぼそっと聞こえた。
「あ、ああ、悪い」
慌てて手を離すと、赤みがかった律の肌が露わになった。律はそこを労わるように摩った後、指で目尻を拭う。
「それで話って?」
上目がちに、ちょっと鼻声だ。
「え?」
「大事な話があるんでしょ?」
「あ、ああ……」
先程との落差がすごくて、頭が上手く切り替わらない。
「あーっと、肝心な部分に関してはウチでしたいんだけど……。そうだな、とりあえず、ウチに女性、と言うか女の子が住んでいるのは、事実だ」
律の目がすうっと細くなっていく。
「……女の子? …………誘拐?」
「や、ちげぇよ⁉ 犯罪じゃねぇか!」
突然何を言い出すんだろうか。今までのシリアスさは一体……?
しかし、傍から見れば似たようなものかもしれないことに、段々と意識が及ぶ。
「歳はいくつなの?」
「俺たちの一個下だ」
「ウチの学校の後輩なの?」
「いや……、そもそも学校には通ってない」
「学校に通ってない? どういうこと?」
「ん……、そのあたりはウチで、本人に会ってもらってからでいいか?」
「いいけど……、え、会うの?」
「ん? うん、紹介したいというか、仲良くなってもらえると俺も助かるな。やっぱ女同士にしか分からないことってあるし」
昨日、律に若菜の存在がバレる原因にもなった生理用品含め、若菜にとって異性である三澄相手には、色々と言い出しづらいことがあるだろう。律にはそのあたりをカバーしてもらいたい。
「……」
しかし、律は何やら渋い顔をしている。
「嫌か?」
「嫌じゃないけど、なんか……、まあ、うん、分かったわ。会わせて」
歯切れが悪い。それでも前向きそうなのはありがたいが……。律にとっては、ただただ迷惑な話であったかもしれない。
「話はひとまずそれで終わり?」
「あ、ああ。とりあえず、ウチにこれから女の子が居候するってことと、あと、その子は別に俺の彼女とかじゃないってことだけ分かってもらえれば、今はまあいいかな」
「ふーん」
「イマイチ信じてなさそうなのはなんで?」
「別に」
律はつんと顔を逸らすと、僅かに目元を赤らめて、自分の髪を弄り始めた。人指し指にぐるぐると巻き付けたり、手櫛をしたり……。これは必死に思考している時の仕草だと知っているが、その内容までは分からない。
確かめたい気持ちもある。が、なんとなく止めておいた方がいい気がする。
三澄がそうやって手をこまねいていると、不意に律が顔をこちらに向けた。妙に真剣な表情だ。
「じゃあ、さ……、私も大切な話していい?」
「え? ああ、いいけど……」
大切な話。
このタイミングで? なんとはなしに、気付けばズボンで手を拭っていた。
「でもその前に。三澄、妙に鈍いところがあるから――」
律が一歩こちらに近づいてきた。困ったような笑みで、先程より更に顔を赤くしている。
どうした? 三澄がそう口にしようとした、瞬間だった。
気付けば、目を瞑った律の顔が目の前にあった。白くキメ細かな肌や、長いまつ毛がよく見える。遅れて、涼しげな香りがやってきた。
「…………」
重なっていたのは、おそらくはほんの数秒か。三澄の唇にうだるような熱を残し、律は離れていく。
「……は?」
三澄の口から零れたのはそれだけ。頭が上手く働かず、ぼーっと、吸い寄せられるままに、目の前の女の子の、これまた茹だこのように上気する顔や、弱風に揺られる黒髪や、凛とした出で立ちを、ただただ目に焼き付ける。
「私、三澄が好き」
スカートをぎゅっと握り締めた律の視線が、三澄を射抜く。
「友達としてじゃなく、異性として、一人の男性として、あなたが好き」
その言葉はまさに暴風だった。三澄の心を吹き飛ばし、残された入れ物は所在なげにぐらぐらと揺れている。
だから当然、三澄に返す言葉はない。沈黙がこの場を制した頃には、流石の律にも動揺の兆しが見え始めた。
そして遂に、律が駆け出した。三澄の横を抜け、そのまま学校へ向かう、と思いきや、押し付けるようにもう一度唇を合わせてきて、どこか名残惜しさを滲ませながら今度こそ走り去っていった。
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