第27話 失敗に次ぐ失敗に次ぐ失敗

 三澄が自宅に帰ってきたのは、あれから一時間が経過した頃だった。

 玄関に、倒れ込むようにして四つん這いになる。動けない。頭痛に倦怠感、めまい等々、扉をくぐる前に呼吸だけは整ったが、満身創痍なのは変わらない。

 随分と衰えた。部活を一年もやらないと、こうも簡単にへばるとは。詩織からの連絡がなければ、こんなものでは済まなかっただろう。


「やっと帰ってきた――! 一体、何があったんですか⁉」


 若菜が駆け寄ってくる。


「悪い……ちょっと……」


 言葉を発するのがあまりにも億劫だった。だが頭はそこそこ回っているので、自分のすべきことは分かる。

三澄は、全てを放棄して休みたい気持ちを抑えて、緩慢な動きで立ち上がると、壁にもたれかかりながら歩き出した。


「え、ちょっと大丈夫ですか? なんか顔色が悪いような……」

「まぁ……はぁ……大丈夫」


 身体を動かす度、言葉を発する度、深呼吸を挟まないとやってられない。


「いや、やっぱり座ってた方がいいですって! 休んでてください!」

「うん……」

「うん、じゃなくて!」


 そんなやり取りが数度繰り返された後、リビングに入った三澄は、冷蔵庫からペットボトルを一本手に取り、蓋を開けて一口煽る。

 ほんのり香ってくる、カレーの匂い。平時なら食欲を掻き立てるそれは、今の三澄には劇物と大差がなかった。


「――っ!」


 弾けるように、口を押さえて走り出す。突然のことに驚く若菜の脇を過ぎ、一直線にトイレへ。便器の前で膝をつき、第一波を吐き出した。

 背後で若菜が絶句する気配。三澄は構わず何度も繰り返し、落ち着いたところで、適当に千切った紙で口を拭い、崩れるように壁にもたれ掛かる。

 出たのは全部水分だった。昼食以後は何も食べていなかったのが幸いしたのだろう。臭いが更なる被害を生むことはない。

 一旦、重々しく深呼吸をしてから、トイレを流した。


「大丈夫、ですか……?」

「とりあえず」


 怖々としている若菜に、微笑み返せるくらいには楽になった。だが、相変わらず頭は痛いし身体も怠い。呼吸さえ、若干しんどかった。


「私は何をしたらいいですか?」

「え? あー……、カレーって、どうなった? ちゃんとできた?」


 先程の匂いから、おそらく若菜が仕上げをしてくれたことは分かった。だが、ちゃんと美味しくできただろうか。確か三澄が家を出た時、火をかけたままだったはずだ。


「カレー? 一応、焦げてはないと思いますけど……、そんなことより体調は? 救急車呼びますか?」

「いや、そこまで大事じゃないって。チアノーゼとか脱水とか……とにかくちょっと疲れてるだけだから、このまま座ってれば治るよ」

「本当ですか?」

「本当だって」


 話を早く終わらせたくて、語気が少しきつくなってしまう。できるなら喋りたくないのだ。どっと身体が重くなる。


「……」


 閉口した若菜は、逡巡するような素振りの後、その場に腰を下ろす。


「………………どうした?」


 若菜がここに残る意味が分からなくて、つい口を開く。


「何かあったら大変じゃないですか」


 つまりは心配をして、ということだろうか。

 実際、本当にそこまで心配するようなことではないのだ。意識がない、なんてレベルになれば別だが、今の三澄の状態は、部活やなんかで走り込みをちょっと頑張り過ぎて、グロッキーなっている人たちとほとんど変わらない。

 もしかしたら、若菜はあまりそういうことを知らないのかもしれないが……。

 やはり、若菜をこの場に拘束しておく理由はない。


「夕飯は食べたのか?」

「まだですけど」

「食べてきていいぞ。今日はかなり迷惑かけたし、俺に気にせずゆっくりしてくれ」

「――っ。…………分かりました」


 一瞬、何かを言いかけた若菜は、しかしそれを言葉にすることはなく、どこか悲しげな表情でこの場を去っていく。

 やらかしたことに気付いても、もう後の祭りである。

 

 その後、小一時間程度で、三澄の体は全快とまではいかないものの回復。シャワーを浴びて出てくると、リビングに若菜の姿はなかった。


――マズったなあ。


 自分の部屋に引っ込んでしまったのだろうか。若菜の部屋には特に時間を潰せるものもないし、もう寝てしまったのかもしれない。

 三澄は渋面で冷蔵庫を開ける。中には、律が買って来てくれた二種類のカップスイーツ。

 二人で分け合って食べた記憶が蘇る。今日、あのまま無事にカレーを作り終えていたなら、以前のように戻れていたのだろうか。


 ……若菜を押し入れに閉じ込めておいて、何を馬鹿なことを。


 作り置きの緑茶を取り出し、冷蔵庫を閉じる。コップに注いで喉を潤してから、カレーを温め直すべくコンロに火を付けた。

 欠伸をしながらレードルでかき混ぜていると、二階から物音が。一階に下りてきた若菜は、三澄を目に留めると、


「段ボールの中身、元に戻してしまっても良かったですよね?」

「あ、ああ、大丈夫」


 どうやら若菜は、隠蔽工作の後処理をしてくれていたらしい。

 少々驚いた。さっき邪険にしてしまったばかりだと言うのに、普通に話しかけてくれた。

 そして若菜は、意外にも更に続ける。


「あと、ちょっと確認させてもらってもいいですか?」

「……確認?」


 なんだか剣呑だ。


「律さんとの件です。あなたは、私と律さんを会わせたくなかったんですよね?」

「うん、そうだけど」


 少し身構える。その先は、あまり深堀りして欲しくない。


「さっきのあの吐いてたりしてたのは、何が原因なんですか?」


 来た。注意して言葉を選んでいかなければ。


「簡単に言えば、俺が彼女作って同棲してると勘違いされたんだ」

「……男女のもつれみたいな話なんですか?」


 若菜の目が微妙に冷たくなった。


「違う違う。あー、律とは色々あって喧嘩中だったんだけど、そんな状態で向こう放置して彼女とよろしくやってたら、そりゃまあキレるわなって。全部勘違いなんだけど」

「……」

「あれ、信じてない?」

「信じてないわけじゃないです。……それで、簡単に言わなかったらどうなるんです?」


 どこか含みがある気がするが、これはきっと突いてはいけない薮だ。


「いや……、俺も完全にイマイチよく分かってない部分があるんだけど、全体の流れとしては、最初は疑惑って感じでウチに乗り込んできて、それが確信に変わってキレてウチを飛び出してったから、俺が追いかけたんだけど駄目でした、みたいな」

「追いかけて駄目だと吐くんですか?」

「追いかけてっていうか、最初から見失ってて、あてもなく探し回ったから」

「必死だったんですね」

「まぁ……うん」


 そうはっきりと言葉にされると、気恥ずかしいものがある。何かに必死になることは別に恥じるものではないはずだが、これはもう条件反射みたいなものかもしれない。

 若菜はそれっきり、黙りこくった。

 ここまでの説明で、納得してくれたのだろうか。そうだといいのだが……。

 そもそもの原因、律との喧嘩について、三澄は一切言及していない。もし、三澄と律の関係修復にあたるのならば、この喧嘩の解決こそが肝要だ。詳らかにするのは、当然必要なプロセスだろう。

 さて、彼女がどう出るか。三澄が目を光らせる。

 しかし次の若菜の言葉は、三澄の予期せぬものであった。


「分かりました。なら、律さんと私を会わせてください」

「……は?」

「これ以上、私のためにあなたが身を削る必要はありません」

「身を削るって……」


 まあ確かに、先程のトイレの光景は衝撃的ではあっただろう。だが、些か大げさ過ぎやしないだろうか。


「てか、会って何する気だよ」

「事情を話して、誤解を解きます。きっと上手くいきます。少なくとも、私とあなたが恋人なんて勘違いは、もう二度と起こらないでしょう」

「……」


 言っている内容は、三澄にとっては非常にありがたいもの。だが、その張り詰めた雰囲気が、三澄の反応を鈍らせる。

 

「むしろ若菜の方こそ、身を削る気なんじゃないの?」

「そんなことはありません」

「本当かよ」

「本当です。申し訳ないですけど、日程の方はそちらだけで決めてください。私はいつでも構いませんので」

「おい、だから――」

「カレー焦げますよ」

「んあ? うぇ、やっべ」


 あからさまな話題逸らしではあったが、確かに手が止まっていた。カレーはルーが焦げやすい。炭素の塊は、流石のカレーでも誤魔化しきれないだろう。

 そうやって三澄が鍋へ意識を向けている間に、若菜はソファの方へ行ってしまう。


――俺、まだいいとも悪いとも言ってないんだけど……。


 若菜の中では、律と会うのはもう決定事項なのか。

 本当に、そういう方向で動いてもいいのだろうか。

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