第3話 決死の介抱

 少女の身体を温め始めてから、一時間くらいが経過しただろうか。

 彼女の顔には、ほんのりと赤みが差し始めていた。

 ほうっと息を吐き、三澄はお湯を止める。


 ひとます、峠は越えたと考えていいだろう。呼吸も安定し、指先までちゃんと熱を持っている。

 だが、まだやるべきことが残っている。むしろ三澄にとっては、ここからが本番と言ってもいいかもしれない。


「……」

 少女の肢体を見据え、すぐに視線を逸らす。

 下着姿を見るまでならまあいい。訂正。良くはないし、別段耐性があるわけでもないが、水着だと思えばなんとか。


 だけど、その先は別だ。

 今すぐ起きて、自分でやってくれないだろうか。

 ……無茶なことは分かっている。結局、自分がやるしかないのだ。


 気合いを入れ直し、三澄は立ち上がる。

 浴室前の脱衣所。そこにある棚から、大量のタオルを引っ張り出した。

 こんもりとタオルを抱え、少女の下に戻る。一枚一枚広げて、少女の身体をゆったりと覆っていく。


 これでとりあえず、目のやり場に困ることはないだろう。ミイラみたいになった少女を見てそう安堵し、浴室外に、余ったタオルを置く。

 そしてまた、ふぅ、と一つ息を吐く。定期的に呼吸を整えておかないと、やってられないのだ。精神的にも、肉体的にも。


 少女の右脇にしゃがみ込んで、タオルの中、少女の腹部のあたりに手を突っ込む。

 ぐっしょりと、重みのある布の感触。次いで、硬いボタンが指先に当たった。

 一つ一つ、触覚だけを頼りに、ボタンを外していく。

 濡れているせいなのか、やけに固い。時間が、ごりごりと精神を削っていく。


 不意に、感触に変化があった。

 そう急激な変化ではない。が、確実な変化だ。それに、この位置。

――これは、む――


 直後、浴室内に響く鈍い音。

 三澄が、浴槽の縁に頭突きをしたのだ。

 頭の芯から全てを、激痛が支配する。ごわんごわーんと、何かが脳内で反響しているようで、視界が微妙に暗く、外の雨音もどこか曖昧だ。


 ぼんやりとした思考で、作業のように、最後までボタンを外しきる。

 続いて、少女の上体を抱き起こす。この時、ずり落ちそうになるタオルの位置を修正するのも忘れない。精神衛生上、必要なことである。


 右膝を立てて少女の背を支え、首根っこを掴むようにして服を引っ張る。少女の両腕が万歳をするように持ち上がった。

 なかなか思うように服が脱げてくれない。濡れているせいで、肌に張り付いているのだろう。それに、あんまり力強くやりすぎると、服が傷んでしまう。


 三澄が器用に、都度都度体勢を変えて、あと残り半分くらい、となったところだった。

 少女が僅かに身じろぎをして、ゆっくりと目を開けていく。

「……」

「……」

 二人の視線が交錯する。時間が止まったみたいだった。

 ぼんやりとしていた少女の瞳が、状況を理解し始めたのか、次第に焦点が合っていく。


――これは、終わったな。

 三澄がそう直感した瞬間、少女が「ひっ」とだけ悲鳴を上げ、自身の身体を抱くようにして一気に後退る。が、浴室はそこまで広くない。三澄と少女の距離なんて、あってないようなものだった。

 このことが、少女を更に追い詰めているのだろう。顔が青ざめ、目に涙が溜まっていく。

 声すら上げられない、本物の怯えだ。


 三澄は、ひとまず少女から距離をとるべく、浴室から出る。

 だが、その後は何もない。言い訳も謝罪も、この場では何の意味もなく、頭が真っ白だった。顔が引きつる。

 それでも、なんとか言葉を捻り出す。


「……と、とりあえず、それで身体拭いたらどうだ?」

 余所を向きながら、指差した。

「……え?」

 少女が下を向く。

 そこには、散乱したタオルたち。

 少女は、戸惑うように視線を彷徨わせた。

 彼女にとってみれば、異様な状況である。目を覚ましたら、知らない男に半裸にされていて、更に身体が大量のタオルで覆われていたとか、下手な、いや、本格ホラー映画なんかよりも、圧倒的に怖い。


「あー、俺、着替え持ってくるから。よかったら着てくれ」

 三澄はそう言って、逃げ出すように脱衣所から出た。すぐに、ドアをぴしゃりと閉じる。


――ヤバいヤバいヤバいヤバい……!

 冷や汗が止まらない。

 覚悟は出来ていたつもりだった。だけど、少女の顔を見た瞬間、ボロボロに崩れ去ってしまった。

 早足に二階へ向かう。途中、段を踏み外して脛をぶつけた。少しの間、痛みに悶え苦しむ。


 そうして息も絶え絶えになりながら、自室に到着。タンスを物色し始める。

 着替え、と言っても三澄のもの、つまり男物なわけで、加えて、見ず知らずの人間の服である。彼女は着たいとは思わないだろう。

 だけど、着てもらう他ない。せめて、彼女の服が渇くまで。


 目当てのものを探し当てると、引っ張り出して、傍に積んでいく。腰ひもでウエストを調節出来る、上下セットのスウェット、薄手のTシャツ、それから、一応、パンツ。勿論、三澄の物である。

 クローゼットの方からも毛布を一枚取り出し、全て持って、階下に下りた。

 脱衣所前。扉をノックして、三澄は呼び掛ける。


「着替えと、それから毛布持って来たから。扉、少しだけ開けるぞ?」

 少し待つ。返事は、無い。

「いいか? 本当に開けるからな。駄目なら、返事してくれ」

 少しずるい言い方だったかもしれない。だけど、ここで一人押し問答なんかしていても意味がない。


 結局、返事は無いまま。三澄は中を見ないようにしながら扉を僅かに開ける。出来た隙間から着替えと毛布を差し込んで、床に置いた。

 すぐに、扉を閉じる。


「……」

 無音。しばらく待っても、中からは物音一つ聞こえてこない。

 まさか、逃げたのだろうか。それとも、また気を失っているのか。

 いずれにせよ、この扉を開けて中を確認しないと始まらない。

 そうやって、三澄が扉の取っ手へ手を伸ばした状態で固まっていると、中から足音が聞こえ始めた。

 それはやがて、衣擦れの音に変わる。ほっとした。


「あー、そこにあるパンツ、嫌だったら穿かなくていいからな? まあ、特に他のを用意出来るってわけでもないんだけど。あと、寒かったら毛布も使ってくれ」

 捲し立てるように言った。言っておかないと、マズい気がした。


「……はい」

 二、三秒置いて、蚊の鳴くような返事が一つ。鈴の音のような、快い声だった。

 まともに、とは言えないが、彼女の声を初めて聞けた。

 警戒心が解けたわけでは全くない。だが、ようやく一歩前進。そう思ってもいいだろう。


――俺も着替えた方がいいよな、これ。

 三澄のシャツやズボンも、びしょ濡れ。少女を抱き上げる際なんかで付いた泥は落としたが、全体的に薄汚れてしまっている。


「そういや、学校……」

 着ていた制服を見て、思い出した。ポケットからスマホを取り出す。

 かなり湿っていたため、シャツで軽く拭いつつ――電源が入った。

 現時刻、九時二十三分。紛れもない、遅刻である。今頃、学校は一時限目の真っ最中といったところか。


「あの……ドライヤー、使ってもいいでしょうか」

 無断欠席を決め込もうとしていたところ、扉の向こうから、おずおずといった風な声が掛かった。気付けば、衣擦れの音も止んでいる。


「ああ、そこにあるものは、ドライヤーでも櫛でも、何でも好きに使ってくれていいから」

 まだまだ気が回らない。自省しながら、努めて優しげに言った。

「ありがとうございます」

 まさか礼を言われるとは、思っていないかった。

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