第208話 裾に紅葉の模様が
結婚前だぞ! そう叫ぶ父に手を振って、娘は婚約者の国へ向かった。というのも、ドレスの仮縫いが中断しているのだ。サイズを調整するという目的でアゼリアを攫ったイヴリースはご機嫌だった。
「みゅぅ」
「ミリアのご飯の時間ね」
子竜マクシミリアンは、このところ魚にハマっている。トレーニングと躾を兼ねて、ゴエティアに預けられていたのだが……その間に贅沢を覚えたらしい。ぎざぎざの牙が並ぶ口を開けて、魚を強請った。
アゼリアが一時滞在するために用意された客間は、子竜のことも配慮して天井が高い部屋だった。元は応接間として使用されていたという。
「任せてください」
慣れた様子でアモンが小さな魚を取り出す。つい先日捕獲したので、大量の魚が収納空間に保管されていた。海水ごと海の一角を収納し、水を吐き出すという荒っぽい漁の成果だ。
人の手のひら程度の小魚をぱくりと丸呑みにし、マクシミリアンは再び口を開ける。するとアモンがもう少し大きな魚を飲み込ませた。徐々に大きくなる獲物だが、遂に飲み込めずに子竜が吐き出す。
アゼリアの腰ほどの胴回りがある見事な魚体が床に転がった。何とかもう一度飲み込もうとチャレンジするものの、マクシミリアンは困惑の表情で諦める。青と銀が美しい魚を、マルバスが複数の輪切りにカットした。
大喜びで食らいつくマクシミリアンだが、食事風景は血塗れで恐ろしい。可愛い顔だが、鋭い牙で魚を引き千切る姿は、猛獣に分類されるだろう。
「床を汚してはダメよ、ミリア」
「ご安心ください、我々が始末しますので」
マルバスが簡単そうに請け負う。様々な現場の後始末も担当した経験があるため、多少の血などすぐに片付く。物騒な裏を察しながらも、アゼリアは笑顔で頷いた。
「ぜひお願いするわ」
「動かないでくださいませ」
「ごめんなさい」
思わずマルバス達の方を振り返ろうとしたアゼリアだが、今はスカートの裾部分の調整中だった。お針子に注意され、慌てて姿勢を正す。両手を腹の前で絡ませ、ぴんと背を伸ばした。
「あと少しです」
別のお針子が言葉を添える。先ほどからこの姿勢で動かずにいたため、足と腰が痛かった。当日履く予定の踵が高い靴は、長時間の着用に向いていない。だが足が長く綺麗に見えると言って選んだのは、アゼリア自身だった。
どうせ結婚式では抱き上げられて移動すると思うの。そう呟いた時、メフィスト以下その場の魔族は全員頷いていた。イヴリースがアゼリアを歩かせる姿が想像できなかったのだ。
お披露目でテラスに立つときだけ、後は椅子に座るか抱き上げられている。その予想は、イヴリース含め誰も否定しなかった。
「姿勢を崩されても結構ですわ」
「ありがとう」
お針子の声に安堵して靴を脱ぎ、スカートの影で足首を回した。あの角度の靴はやはり見栄を張り過ぎかしら。そんな不安を振り払うように、マクシミリアンが駆け寄ってスカートに抱き着いた。
「みゅぅう」
可愛いと手を伸ばしかけたアゼリアの後ろで、悲鳴があがる。
「ドレスがっ! その手で触らないでぇえええ!!!」
お針子の突進に驚いた子竜が後ろに転がり、隙間に滑り込んだ。アモンが手早く子竜を回収する。だがすでに遅く、高価な絹の裾には……赤い紅葉模様が滲んでいた。
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