第143話 兎のぬいぐるみを抱えた兎
「すごく不安ね」
「胃が、きりきりと痛む」
カサンドラが心配しているのは、外壁外の戦場ではない。そちらは魔王軍の加勢があったので、ほぼ片付いていた。
夫で竜殺しの英雄であるアウグストが、アルブレヒト侯爵やヘルマン伯爵を率いて戦えば、援軍は要らなかったわね。
内心で辛辣な感想を呟いたカサンドラ王太后だが、さすがに口に出すほど愚かではなかった。胃のあたりを押さえて、青い顔をした息子に聞かせる話でもない。
「大丈夫ですか? あ、よく効く胃薬を持ってますわ」
何を詰めたのか尋ねようと思っていた大きな布袋から、毛布がこぼれ落ちた。慌てて押し込む彼女の後ろから、今度は下着が落ちる。慌てて見なかったフリで目を逸らす間に、彼女は目当ての兎のぬいぐるみを見つけた。
薬?
母子で同じことを思うが、自前の兎耳を揺らしながら、ヴィルヘルミーナは兎の腹に指を突っ込んだ。ぬいぐるみとはいえ、絵的に怖い。中にポケットでもあったのか、指先に小さな紙包を摘んで引っ張り出した。
「これですわ」
「ありがとう……ヴィルヘルミーナ嬢の優しさに感謝するよ」
毒味もせず薬を飲む息子に、苦笑いする母だが止めようとしない。ヴィルヘルミーナが毒を盛らないと信じているのが半分、これで死ぬようなら私の教育が悪かったのねと諦め半分だった。
「ミーナとお呼びください」
「では俺もベルと」
家族はそう呼ぶのです。互いに愛称を呼ぶよう話すベルンハルトの表情は明るい。薬が効いたのだろう。紙包の方ではなく、婚約者という薬だ。特効薬だったようで、胃を押さえる手は緩んでいた。
「ベル、お前は戦場に戻らなくていいの?」
「何もすることがありません」
「それでも砦に姿を見せるくらいは……あら」
義務でしょうと続ける母の声が途切れた。凱旋の喜びに沸く人々の声が街から届く。長い耳のヴェルヘルミーナはもちろん、狐耳も音に敏感だった。ぴくりと揺れた後、拾った音から内容を判断していく。
「お前がのんびりしているから、アウグストがすべて片付けてしまったわ」
呆れたと笑う母に、息子は「それは重畳です」と言い返した。魔王軍の精鋭は一騎当千、イヴリースが戦場を離れても圧倒的な火力があった。それに加え、複数の英雄率いるヘーファーマイアー家直属の兵士や騎士が外壁を守る。隙はなかった。
「国王なのに、凱旋の場にいないなんて」
くすっと笑う母の嫌味に、国王となった息子は肩をすくめる。さりげなく婚約者の腰を抱き寄せた。
「国王がいなくても勝つのは、王の威厳を示したことになりませんか」
「口ばっかり達者ね」
それでも満足そうに扇を口元に当てたカサンドラは立ち上がる。夫や英雄達を労い、出迎えるのは王族の務めだった。
「一緒に行こう、ミーナ」
「……っ、でも私は耳が……」
兎耳を隠すのは苦手だと尻込みする美しい令嬢に、ベルンハルトは膝をついて願い出る。
「母や妹も獣人だ。あなたを貶める民などいない。俺の隣で笑って、父を出迎えよう」
もし獣人を貶す者がいれば、それはクリスタ国の王族を否定する者だ。そう言い切ったベルンハルトの声に、ヴィルヘルミーナは覚悟を決めた。
カサンドラにも促され、ヴィルヘルミーナは屋敷の外へ向かって歩く。隣に立つ婚約者ベルンハルトと腕を絡めて、背を伸ばし、口元に優雅な笑みを貼り付けて。
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