第125話 強者は弱者に先手を譲る
二日酔いを引きずらない程度で解散した昨夜の英断のおかげで、アウグストの体調は万全だった。やはり戦も酒も、引き際を誤らねば負けはせん。奇妙な理屈で胸を張る父に手を振ったアゼリアは、先程の余韻を確かめるように頬に手を当てた。
行ってくると告げた婚約者イヴリースが、頬にキスをくれた。無言で目を閉じて待てば、目蓋に……不満を示して少し尖らせた唇にも重ねられる。甘い雰囲気を邪魔する者はなかった。
意外に思って目を開けば、父と母も口付けの真っ最中で。頬を赤くしたアゼリアに、イヴリースは全員無事に連れ帰る約束をする。連れ帰る約束は、同時に彼自身も帰ってくる約束と同じだった。
「絶対よ」
転移で消えた婚約者と父の姿は、どこか勇ましかった。背中がいつもより大きく見えて、何も不安はいらないのだと思える。
「……さて、俺は砦に詰めてるから。この屋敷は母上とアゼリアに任せるよ」
今度は兄の見送りである。奥庭から玄関まで歩いて、馬に乗って駆け抜ける兄の背に手を振った。集まった侍女達も、普通の外出時と変わらない見送りだった。何も不安のない戦なんて、奇妙な感じだ。
「お母様、どうしましょうか」
「特にすることもないけれど、奥庭の大木の根本がいいわね」
「お茶会ですか?」
「あら、一応見張りよ。あの大木は丘の天辺に立っているから、見渡せるでしょう?」
うふふと笑う母の提案に、アゼリアは大きく頷いた。街を見下ろす高台に建つ屋敷は中腹だが、奥庭の大木は小さな山の頂上だ。獣人であるカサンドラやアゼリアは、荷物を持った侍女を伴って山を登っていく。
「やはりよく見えるわ」
街を囲む外壁の外側に、僅かばかりの兵が詰めかけていた。大した数ではなく、ヘルマン男爵やアルブレヒト辺境伯の希望により、見逃した敵兵だった。全部を魔王軍が片付けてしまうと、出番がなく腕が鈍ると陳情があったのだ。
「ベルにとっては初の防衛かしら」
「いいえ、ユーグレース国が攻めてきたのが最初でしょう?」
「あら。あれって魔王陛下が片付けたのではなくて」
「お兄様も指揮をとっていらしたわ」
初陣の話が曖昧になっているクリスタ国王ベルンハルトは、ちょうど砦に着いたところだった。大きなくしゃみを2つもして、馬から飛び降りる。そのまま中に駆け込み、砦の上部にある部屋に落ち着いた。全体がよく見える指揮所であり、平時は会議にも使われる。以前、メフィストが修復した部屋だった。
「先手を打つか、後手で受けるか」
どちらでも結末は一緒だ。ならば……口元を歪めて笑う姿は、優しい兄や息子の顔を捨てた1人の王だった。
「すでに決めておられるのであろう」
「当然じゃな」
数倍の敵兵を退けた老いた英雄と、魔物相手に一歩も退かなかった稀代の剣士は顔を見合わせ、若き王の声掛りを待った。
「弱者に先手を譲るのは、王道だ」
決断した王の横顔に、2人の英雄は静かに頭を下げた。恩人の息子から主君へと、ベルンハルトの扱いが確定した瞬間だった。
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