第94話 逆転させた刻の歯車

 時間を現在から巻き戻す。本来の時の流れを数十倍に加速した速さは、激痛も倍増させた。苦しみに喉を掻きむしり、カサついた肌に赤い筋が刻まれる。激痛に身体は不自然な動きで転がり、のけぞり、悲鳴をあげた。


 心臓が止まるのではないかと思う激痛の中、見つけた何かに爪を立てて縋りつく。アゼリアの手が握り締めた温もりは、どこまでも優しく……だが離さないと握り返す。苦しみの間も孤独ではない。それだけをよすがに、必死で呼吸した。死ねないと強く願い、生きることに集中する。


 それは獣の本能に近かった。獣化を可能にする濃い血筋と生命力が、彼女をぎりぎりの縁で踏み留まらせる。


「アゼリア、あと少しだ……アゼリア、愛しき余の半身」


 囁く声に「がんばる」と答えた声は掠れ、途中で苦痛の悲鳴になって溶けた。それでも指先に触れる温もりが強くなり、気づいてくれたと思う。そんな思考すら次の激痛に飲まれた。身体に触れる服や空気、音までが敵のようだ。関節は熱を持ち、重い身体は動かない。いままでどうやって生きてきたのか、こんな苦しい世界で何を願えばいい?


 アゼリアの意識が混濁するたび、イヴリースの呼び掛けが引き戻す。離れてはいけない、彼を見失ったら終わりだ。そう自分に言い聞かせたアゼリアの苦痛は唐突に切れた。ぷつりと糸を断つように、浮上する心地よさに身を委ねる。


「もう触れてもいいですよ」


 次の術式が発動するまで余裕がありますから。そう告げたバラムがほっとした顔で崩れ落ちる。咄嗟に妹バールが膝をついて支えた。


 大量の魔力を放出したバラムは、ずっと動かさずに筋力が落ちた腕を持ち上げる。目の高さで細くなった手首から肘までじっくり確認し、苦笑いした。いくら最愛の妹のためでも、ちょっと眠りすぎたか。身体が朽ちてしまうと自嘲した。


「愛しのアゼリア、その美しい琥珀で余を映してくれ」


 懇願する声に応えようと、アゼリアはゆっくりと目蓋を押し上げる。怠くて動けなかった指を伸ばせば、少しぎこちないが強く握られた。


「……イヴ、……けほっ」


 そのまま咳き込んだ喉が痛い。叫び過ぎて痛めた喉にイヴリースの手が当てられ、すぐに治癒を施された。楽になった喉は呼吸も改善する。大きく深呼吸して、久しぶりに息をしたような不思議な感覚に襲われた。


「あり、がと……イヴリース」


 今度は最後まで言えた。アゼリアは強張る顔で笑みを浮かべる。その頬や額に幾つものキスが降り、最後に傷だらけの手のひらにも触れた。治癒を施したイヴリースに抱き起こされ、彼の袖が赤く汚れているのが目に入る。


「それ……」


「大したことではない」


 穏やかに流そうとしたが、アゼリアは目を見開く。あの苦しく痛い時間の中で、握り締めて爪を突き立てたのは……助けてくれた温もりは? 隠そうとしたイヴリースの袖を引き寄せ、ぐいと捲った。指先、手のひら、手首の少し上まで。至る所に食い込んだ爪に引き裂かれた傷が残る。アゼリアの治癒を優先し、己の治療を後回しにしたイヴリースの白い肌は傷だらけだった。

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